巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune119

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2015.2.20

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         捨小舟  後編   涙香小史 訳

                 百十九

 男爵は遽(あわただ)しく小浪嬢の手を受け止めたけれど、此の時毒薬の幾分は、早や既に嬢の口に入った。嬢は勿論毒薬とは思っていない事なので、猶予もなく咽喉から奥に呑み込んだ。恐るべし毒薬の作用、嬢は声も発せず唯手の先を握ったまま、どうと床の上に倒れた。

 男爵は嬢から奪い取った毒薬を手に持った儘(まま)、此の様を打ち眺め、暫しは嬢が死んだとは思うことが出来ず、呆気に取られて狼狽(うろたえ)るばかりだったが、其の中、心を鎮(しず)めて考えて見ると、嬢は其の身の悪事が露見して、自ら逃がれる道が無いのを知り、人を殺す為に用いた其の毒を仰いで、自ら死んだものに違いないと、唯だ是だけが男爵の胸に浮んだ思案であった。其の他の事は思って見る暇もなかった。

 男爵は先ず毒薬の瓶に口栓を堅く施し、其の上で嬢の身を揺り動かしたが、遂に起きず、
 「水を持って来い、水を持って来い。」
と急に腰元を呼び立て、嬢の口に水を注ごうとしたが、其の甲斐はなかった。嬢の顔は見る見る中に死相を呈し、全く事切れと為り終わった。

 如何に微妙な毒薬であるとは云え、この様に速やかに死んでしまうとは殆ど思う事が出来なかったので、直ちに医者をも呼び、充分に手当てをしたけれど、医者も早や、嬢の身を死骸であると云い、何しろ古来、類の無い鬼神の様な毒薬の作用であると言って、驚く事並大抵ではなかった。

 引き続いて、其の事は警察の沙汰となり、男爵の身に種々、五月蝿(うるさい)事が起ころうとしたが、勿論男爵の身分として、軽々しく疑われる筈も無い。それに嬢の腰元が、次の間で、始終の様子を偸(ぬす)み窺(うかが)って居たと警察の問いに答え、小浪嬢自ら、男爵の留めるのを聞かず、毒薬を服したのだと言い立て、更に男爵も警察署長に逢い、今まで嬢と我が間に在った一部始終を、内聞として詳しく語ったので、嬢は全く自殺したものと認められ、男爵の身には何の構いもなくて済んだ。

 アア憐れむべし。舌三寸を以って幾多の人を痛めた、倉濱小浪嬢の生涯は、この様な有様で茲(ここ)に旅路の露とは消え失せた。
 男爵は更に数多の金子を投じ、罷役少佐を仏国から呼び寄せて、懇篤(ねんごろ)に嬢の遺骸を葬らせ、其の身は嬢の形見として残る、彼の毒薬を携え、逃げる様に再び瑞西(スイス)の山中に帰ったが、嬢の身に在った悲劇は、何人にも語る事を為さなかった。

 唯西泉博士に対しては其の毒薬を示し、是が彼の日々一滴づつ我が身を殺そうとした、恐るべき毒薬であると思われるが、何(ど)うでしょうと云うと、博士も男爵の心の辛さを察してか、何事も問い試みず、唯其の毒薬だけを受け取ったが、翌日に及び男爵に一書を送り、全く此の薬が御身の命を取らんとしたものにして、かつて常磐荘に於いて、小部石(コブストン)大佐が飲み残したものと同じものであるとの鑑定書を送って来た。

 此の鑑定を得て、男爵の心の雲も、更に深く深く重なって来て、殆ど咫尺(しせき)も弁じ得ない《暗くて一寸先も見えない》程となった。嬢は如何にしてこの様な毒薬を手に入れ、又何が為に我を殺そうとしたのだろう。それらの事を、一言も聞くことが出来ない間に、嬢が自殺するに及んだ事は、この上無く残念な事だったが、何様、嬢の身には替えられない程の秘密を蓄へ、其の秘密の一言半句さえも洩れるのを恐れ、其の身の命を以って、之を蔽(おほ)い隠したものに違いない。

 それにつけても、益々明白と為って来たのは、園枝の清浄潔白である一事である。園枝は毒薬の行使者では無い。其の自ら弁じた様に、又無名の手紙に在った様に、全く悪人の罠に罹(かか)り、この様な疑いを受けるに至った者である。彼女は真に貞女であった。

 この様に思い出せば思うだけ、益々明白と為って来た様な気がして来て、園枝が我に対して弁解した時の様子から、何一品携えずに家を出で、而も頼るべき所も無い為、昔の音楽教授所に身を寄せた事など、真に並々でない女でなければ、真似さえも出来ない所で、それを悉(ことごと)く疑った我が身の浅薄(あさはか)さ、今更何を云っても始まらず、悔恨交々(こもごも)身を責めて、男爵は一刻の平穏をも得ることが出来なかった。

 とやかくと思い悩んだ末、終に彼の毒の鑑定を添え、更に其の毒薬の我が手に入った次第等、細々書き加えて、英国の法廷に送り届けたならば、園枝が放免せらるる因(もと)ともなり、我が過ちの万分の一をも償うことが出来るだろうかと、漸(ようや)く心を定めた折柄、常磐荘の留守宅から一通の手紙が届いた。

 此の手紙こそ、予(か)ねて男爵が、園枝の裁判の進行を、一々報じ越せよと命じて置いた、書記の認(したた)めたものなので、男爵は好い所へ来たと、震える手先で封を切り、一順読んで非常に強い感じに、尾迫(おいや)られたものと覚しく、自ら禁(とど)める事が出来ない程に、涙ハラハラと落とし、起(た)って部屋の中を歩き廻った。
 知らず、手紙の中に何事が記して有るのか。


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