sutekobune131
捨小舟 (博文館文庫本より)(転載禁止)
メアリー・エリザベス・ブラッドン作 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
since 2015.3.4
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捨小舟 後編 涙香小史 訳
百三十一
男爵は園枝に別れ、直ちに待たせてある門前の馬車に乗って帰ったが、この時園枝の住居の裏口の方から現われて来た、一人の男があった。是こそ先の日、隣の植木屋に来て頻りとこの家の裏口の様子から、家の中の部屋配り(まどり)などを、聞き探ろうとした彼の怪しい男である。この男は男爵が立ち去る馬車の後ろ影を見送って、一人頷(うなず)き、
「フム、滅法長い面会だったぞ。来てから帰るまで四時間の余も掛かった。唯残念には庭の奥で面会したから樹に遮(さえぎ)られて、二人の姿も見えず、何を話したか其の声も聞こえなかったが、ナニ併し、どうせ二人の間が悪くなる気遣いはない。ああ長く掛かった所を見ると、男爵は充分詫(わ)びを云い、懇懇(こんこん)と口説いたに違いない。
園枝も充分堅意地者ではあるけれど、終には男爵の心に絆(ほだ)され、何とか話しが纏(まと)まったので、男爵は委細を明日の話に譲り、暇を告げて帰ったのだろう。旨(うま)い、旨い、そうすると園枝は再び常磐男爵夫人で、アノ娘が常磐家の相続人か。この事を永谷礼吉や皮林育堂に聞かせれば、再び勘当される端緒(いとぐち)が開けて来たと、さぞ絶望する事であろうが、お気の毒だが仕方が無い。運が徐々(そろそろ)彼等を見捨てて、己(おれ)の方へ向いて来たのだ。
しかし待てよ、運が向いたとは云うものの、アノ園枝と云う奴が、中々剛情頑強で、己(おれ)の手にさえ終えない女だから、浮か浮か取り掛かると、己も失敗(しくじ)るぞ。今度こそは厭も応も云わせない様に仕組んで置いて、園枝よりも男爵に取つ掛からねば。そうだ是だけ用心して男爵に取って掛かれば、万に一つも間違いはなく、五千ポンドや一万ポンドの骨折り代は。其の後は又
気永く追々に吸い取って遣れば好い。」
腹の内に呟(つぶや)きながら、徐々(そろそろ)とここを立ち去って、何処に行くかと見る中に、彼は只走りに走り、初め日の全く暮れ果てた頃、背音川の支流へと達したが、ここで土手の上に立ち、流れの上下を見回しながら、一丁(約109m)ほど上手に当り、繋いである荷船の中で焚き火の明かりが見えるのを認め、
「アアあの船が好い。」
と云って其の傍まで上って行き、
「オイ船頭、船頭」
と呼び、挨拶をも待たずに、岸からその船に飛び入ると、船頭は怪訝(けげん)な顔でこの男を見、
「何だって俺の船へ飛び込むのだ。」
男は平気の顔色で、
「今夜この船へ旅客を載(の)せて貰いたいのだが。」
と云う。船頭は無愛想に、
「この船は荷船だよ。客など載せる場所は無い。」
男「荷船でも充分の賃(かね)さえ出せば好かろう。どうだ金貨で二十フランは。」
船頭「エ、二十フラン。今時の世に二十フランとは余り聞かない好い賃銭だが、マアその金貨の色を見た上で相談しよう。色を見ない中は安心出来ないから。」
男は十フランの金貨を投げ出し
「サアこの色だ。」
と云うと、船頭は火に透かして打ち眺め、或いは爪に弾(はじい)てその音を聞きなどしながら、
「アアこれは本物だ、この金貨なら一枚でも承知が出来る。」
男「イヤ二枚遣るから」
船「それは近頃にない儲(もう)け仕事だ。シタが何処までその客を載せて行く。」
男「何処までか、それは未だ明らかに言われないが、夜明けまで掛かると思えば好い、夜明けまで上手の方へ漕いで行くのだ。」
船「それは少し難儀だなア、上手へ行くには、潮の都合が悪いから十一時直ぐでなければ上られない。」
男「イヤ十一時か十二時頃で好い。その刻限に客が来るから、それまでこの儘(まま)ここで待って居て呉れ。後一枚の金貨はその時に渡すから、」
船頭は一も二もなく承諾し、
「余り勿体無い話で何だか嘘の様だなア。併し好いワ、この金貨一枚預かって置けば、朝まで待ち惚(ぼう)けに逢っても、損は無い。」
是で相談が纏(まとま)ったので、満足して立ち去った。
話しは代わって、茲(ここ)に園枝は男爵の去った後に、早や劇場に出て行くべき刻限も迫ったので、心に起こる様々の思いを鎮め、仕度しようとして、家の中に入って行った。朝にも夕にも唯可愛(かわい)いのは、娘二葉で、二葉の顔をさえ見れば、憂きも辛きも忘れる程なので、直ちに乳母の室に行き、早や眠って正体も無い二葉を抱き取り、自分の居間に連れて入り、その寝顔を眺めるに従い、男爵の為に波立った胸の中も、何時しか風吹かない池水の様に落ち着いて来たので、知らず知らず声を発して、
「コレ二葉や、私の本当のお友達は、広い世界に唯和女(そなた)ばかりだ。早く育って人にも褒められる様になってお呉れ。私は是から用事が有って出て行くから、一時過ぎまでは帰られないから、其の間好い夢を見て、乳母と一緒に寝て在(おいで)よ。」
などと、目覚めた成人(おとな)に言う様に言い聞かせて復(ま)た余念もなく、時の移るのをさえ気附かないで居る折から、乳母は入って来て、
「早や馬車が参りました。」
と伝えたので、園枝は立ち上がって、眠っている二葉を非常に惜しそうに乳母に渡し、匆匆(そうそう)に仕度を終えて、更に乳母に留守の間、二葉を守る用心など、細々と言い聞かせ、顔を覆(おお)って馬車にその身を乗せた。
何故にか、平日より二葉の事が強(いた)く気に掛かり、殆ど今夜だけ欠勤しようかとまで思ったけれど、イヤイヤ今欠勤しては、後々にも拘(かか)わることになる。殊にこの様に稼ぐのも、二葉の為なのだと、この様に思い直す間に、馬車は早や馳せ出去ったのは、何とも仕方がなかったのだ。
是から幾時間をか経、夜の十一時に間近い頃、乳母が二葉に添い寝して夢路に深く迷い入った頃を窺(うかが)ってか、この家の裏路から、一人の曲者、顔に覆面をして、抜き足で乳母の室に忍び入り、忽(たちま)ちにして、眠っている二葉を引き攫(さら)い、驚き覚めて立ち上がった乳母を、蹴倒し、助けを叫ぶ暇さえも与えずに、飛ぶ様に闇を潜(くぐ)り、何処へか逃げ失せてしまった。
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