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捨小舟 　　（博文館文庫本より）（転載禁止）

メアリー・エリザベス・ブラッドン作　　黒岩涙香　翻案　　トシ　口語訳

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　　　　　　　　　捨小舟　　後編　　　涙香小史　訳

　　　　　　　　　　　　　　百三十四

　翌朝起った椿事と言うのは、外ならない男爵が園枝の家に出て行く前、宿に届いた幾通の手紙、中に下の一通あり。
　その文は、
　「常磐男爵が、若し盗み去られた園枝夫人の娘を見出し度く思うなら、英貨五千ポンドに相当する金額を紙幣もしくは正金で携帯し、左記の所へ来たられよ。自分が若し差し支えあるなら、充分に信任した代人を送るのも好し。

　彼の娘は身体健康、総て無難で或る所に隠されて有るので、上の金額と引き換えに健全の儘（まま）男爵又は其の代人に引き渡すだろう。男爵が若し、この手紙の意に応じないか、又は警察にでも訴える様な事をすれば、この手紙の差出人は、仕方が無く仇をその娘の身に報い、娘を生涯の不具者となすか、そうでなくても、生涯を泣いて暮らすほどの、充分な苦しみを娘の身に加えるだろう。」
と記し、終わりに、
　「ダンフォー街四十三番舘」
と記して有った。

　是は疑う迄もなく、園枝の娘二葉を盗み去った悪人が、二葉を種に男爵から大金を強請（ゆす）ろうとんと企計（たくら）んだものである。この強談（ゆすり）に応じるべきだろうか応じないで置くべきだろうか。応じなければ娘の生涯を不具者にして終るだろうと有り、実に身の毛の逆立（よだ）つほど恐ろしい脅迫の文句である。

　殆ど否応を云わさない様に仕組んで有り、勿論応じる外に一点の逃げ道も無いので、男爵は多く思案を費やさず、先ず此の手紙を園枝の許に持って行って、其の上で是に応じる事にしようかと思ったが、それよりも直ちに娘を取り返し、その娘を土産同様にして連れて行けば、園枝の喜びは又一層に違いないと、更に考え直す所へ、折り良く彼の横山長作が入って来て、悪人古松の行方は未だ何の手掛かりをも得られないと報じた。

　男爵は上の手紙を示し、直ちに金貨を携えて行き、其の娘を取り戻して来いと命じると、横山は手紙の文句の、余りに非道なのに呆れ果て、
　「今の世にこれほどの悪事が行われるとは実に恐ろしい次第ですが、娘が先方（さき）の手に在る間は咽喉首を握られて居る様な者で、何共致し方が有りません。」
と云い、更に又考えて、

　「アア、事に依ると、園枝夫人も矢張りこの通りの了見で何処かの屋敷から幼い頃に古松に盗み去られた身の上かも知れません。古松の娘と云うのに、少しも古松に似て居ませんもの。」
　この一語に男爵は豁然（かつぜん）として、忽ち合点する所があった。殆ど顔の相好を頽（くず）して、
　「そうだ、そうだ、園枝もこの手で何処かの貴族から盗まれた女に相違ない。古松の実の子にあの様な貞女が生まれる筈はない。俺は初めからどう見ても園枝ばかりは貴族の胤の様だと怪しんで居た。」

　云う中には時刻が延びるので、男爵は直ちに大金を用意して横山に渡そうとすると、横山は受け取らず、兎も角も男爵の代人となり、手紙の差し出し所を見届け、更にこの談判の相手となる先方の人をも見て、然る上に、更に金を持って出直す事にしますと云い、その身を宛も代言人の様な姿に変え、直ちにダンフォート街を指して行くと、この辺りは身分の悪るい人ばかりが住む所で、警察の手も充分には行届かないことは、唯町の様子と目に遮（さえぎ）る住人等の様子とを一目見た丈で知られる。

　横山は先ず町の片端から、其の番地を検（あらた）めて行く中、頓（やが）て四十三番館を見出したので、その家の体裁を眺めると、入り口に、
　「飾り物及び鍍金職」
との看板を掲げ、店の窓際に鍍金した品物両三個を並べてあった。是は問うまでもなく、掏（す）りなどの盗み来る不正品を買い入れ、其の形を鋳潰して、他の品を作って売る、世に言う、景品売買の商人である。鍍金職とはその不正の業を隠す、表向きの名目であることは、横山の目には火を見るよりも明白である。




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