sutekobune138
捨小舟 (博文館文庫本より)(転載禁止)
メアリー・エリザベス・ブラッドン作 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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捨小舟 後編 涙香小史 訳
百三十八
この様な浜辺の漁師村に、これ程色白く温順(おとな)しい子供がある筈は無い。誰の児にして何うして此処に居るのだろう。
特に怪しいのは、如何して二十年前奪われた我が児の面影に生き写しなのだろうかと、牧島侯爵は真に夢の様に想わされ、又もその児を抱き上げると、貧家の児の様に悪怯(わるび)れなどする様子は少しも無く、却(かえ)って侯爵の腕の中を、非常に抱かれ心地が好い所と思う様に、身を落ち着けて悶掻(もが)きもしない。
侯爵は唯愛らしさに堪え兼ねて、其の顔を打ち眺めるばかりだったが、果ては様々な思いが胸に浮んで、涙の落ちるのを禁(とど)める事が出来なかった。アア、世にはこれ程迄可愛いい子供が有るのに、如何して我は頭に霜置くこの年まで、妻もなく子もなく、親戚朋友にさえ隔たって、何時心の休まると云う当て度も無く、浸々たる荒浪の上に漂泊(さまよ)う身となったのだろう。これは心柄(こころがら)《その人の持って生まれた気持ちの持ち方》に似て心柄ならず。我が身に定まった運命である。
世を去った我が妻、奪われた我が児には、再び廻り逢う道がないので、せめてはこの児の様な可愛いい児を貰い受け、我が児と思って育て上げたなら、如何程楽しいことだろう。死ぬのを目当てに荒波をばかり乗り廻る儚(はか)ない生涯を罷(や)め、陸(おか)の上に住む丈でも、今迄に打って変わる幸いであると、俄かに我が生涯の非を悟り、心が動いて鎮まらない。
抱かれた少女は侯爵の顔が非常に異様に曇って来たのを見て、幼心にも悲しさを覚えたのか、殆ど泣き出しそうな面持ちになったので、侯爵はそうと見て、初めて気が附き、
「オオ、何も怖い事はない。伯父さんはお前が余り温順(おとなこしいから、感心して見惚(みと)れて居た。」
と云うと、少女は忽(たちま)ち心が解け、嬉しそうに笑みを浮かべた。
候「アア此の笑う目元と云い、口元と云い、本当に生き写しだ。何うしてまあ斯(こ)うも好く似た子があるのだらう。お前はこの伯父さんの子に成らないか。伯父さんが貰って遣るが。」
と云うと、少女に合点が行ったのか行かないのか、
「阿母(まんま)、阿母」
と唱えるだけ。侯爵は驚いて、
「オオ、阿母(まんま)とは英国の言葉だが、英国人の子だと見える。」
と打ち呟(つぶや)き、更に英語を以って、
「お前の名は何と云う。」
少女は耳に慣れた語を聞く丈も嬉しいのか、又一層嬉しそうに微笑(ほほえ)んで、
「名は二葉」
と舌も調わない片言で答えた。
二葉との一言に侯爵は跳ね返るほど仰天し、
「何だと、二葉と云う名か、双葉とは先年盗まれた我が娘の名だが、顔付ばかりではなく、名前まで同じ事とは、世にこれ程まで不思議な事が又と有らうか。他人の子では無い。私の子だ。そうだ、二十年前に奪われた、アノ児だ。アノ児だ。アノ二葉の再生としか思われない。今日我が屋敷の見納めに帰って来て、図らずも同じ二葉と名の付いたこの児に逢うとは、偶然の事では無い。真に天意の引き合わせと云うものだ。誰の子で有らうと貰って育てる。この可愛い顔を見て、何で別れて立ち去られよう、何して海へ帰られよう。」
と殆ど身も世も忘れた婦人の様に、男には有るまじきほど、その心を掻き乱すのも無理ではない。
もともとは極めて多情多恨の人にて、非常なる不幸の為、その情、その恨(うらみ)に耐えることが出来ず、家を捨てて二十年来、情を抑えて暮らした反動で、茲(ここ)に心が一時に動き出したものである。
そこで侯爵は四辺(あたり)を見回し、以前にこの子が出て来た漁師の家に目を留めて、
「アアあの家で聞けばこの子の親も分るだろう。」
と云い、更にその子を抱いた儘(まま)でその家に歩み入ると、是が漁師住居(ずまい)の気楽さとも云うべきか、主人と思(おぼ)しき四十恰好の日焼けした男が、大の字になって打ち臥(ふ)して、昼寝の鼾声(いびき)ばかり高かった。
侯爵は
「コレ、主人」
と呼び起こすと、主人は鼾声にも似ず飛んで起き、先ず侯爵の抱いた少女に目を附けて、
「この餓鬼やァ、今迄俺の傍に昼寝をして居たと思ったら、何時の間に外へ出やァがった。」
と口汚く罵(ののし)るのは、この子の父で無いことは、問わずして明らかなので、侯爵は故(わざ)と
「之はお前の子かい。」
と聞いた。
漁師「イヤ、それは先日から旅人に預かって居るのです。」
公爵はその旅人とは何者かと掘って問うと、英国からこの国に用事が有って、仏国を経て来たと云う、五十頃の紳士とも無頼漢(ならずもの)とも分からない男で、この小児(こども)をば自分の姪と称し、姪ではあるが父母に離れて養育する人が無い為、自分が引き取って育てているとやら言うが、どうやら姪らしくも思われないと云い、最後に、
「私の見た所ぢゃ、何でも金にする積りで引き攫(さら)って逃げて来たのではないかと思います。」
と云った。真に引き攫って逃げて来たものとすれば、この二葉の身の上も、二十年前攫われた、我が娘二葉と同様なので、侯爵は益々奇異の想いがして、更に深く聴(き)こうとして、先ず腰をその床に下ろした。
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