sutekobune146
捨小舟 (博文館文庫本より)(転載禁止)
メアリー・エリザベス・ブラッドン作 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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捨小舟 後編 涙香小史 訳
百四十六
永く園枝の身に祟(たた)って居た悪人古松は既に捕われ、娘二葉の行方も判明(わか)り、父侯爵も現れて来たので、まだ親子三人、目出度く対面する迄には到って居ないとは云え、是で園枝の身に纏(まとわ)り付居ている重ね重ねの禍いも、殆ど消え尽くそうとしている。
しかしながら、禍いの原(もと)の因(もと)を作った彼の皮林育堂なる者、今以って捕われて居ない。瑞西(スイス)の山中で倉濱小浪嬢を欺いて以来、何所に隠れたか、少しも音沙汰さえ無いのは、最早園枝と常磐男爵に対する、その恐ろしい思意を断念したのだろうか。
今は仏国(フランス)から英国に旅する人は、巴里の北端にあるノルドで汽車に乗り、クレイル、アミーン、アツベビル等の停車場を過ぎ、カレーから船に乗り、夢の間にドーバーの海峡を渡って英国に達するのであるが、その昔汽車の便が無い頃は、客を振り落とす程揺れ動く、粗末な馬車が朝夕両度づつ、双方から発するのが有っただけである。
朝発したものが夜に入って達し、夕に発したものは夜明けて後に達す、其の不便は並大抵ではなかったが、不便を忍んでこの馬車に乗り、巴里から出発してたった今、カレーに着いた、年三十歳足らずの一旅人、他の客と共に、馬車を下り、街灯の設けも無い薄暗い巷を辿って、埠頭の傍にある休憩所に入り、隅の方にある卓子(テーブル)に向かって座し、酒一瓶肉一皿を命じ、昼以来の飢えを癒して居た。
頓(やが)て英国に渡る海峡船から出発の合図が聞こえると共に、他の客は先を争って立ったが、この客だけは、悠然と落ち着いて、立ち上がる景色もない。給仕の者が怪しんで、
「お客様、船にお乗りなさるなら、もう埠頭へお出でなさらなければ。」
と言うと、客は驚きもせず、柱時計を打ち眺めて、
「いや、ドーバーから此方(こちら)へ来る船を待つのだ。何時に着くだろう。」
と問い返した。
給仕はまだ不審の様子で、
「ハイ、九時半には着きます。未だ一時間は有りますが、貴方は向こうから来る人をお迎えですか。」
客は問はれるのを五月蝿そうに、
「そうだ。」
と無愛想に答え、
「もう一瓶直ぐにこの酒を持って来い。」
と命じた。給仕は気難しい客と見てか、直ぐ一瓶を持って来た儘(まま)再びこの傍に寄り付かなかった。客は益々静まって独酌しながら、時々柱時計を眺める外は身動きもしなかったが、やがて九時半となり、対岸から船が着いたのを聞くと、急ぎ勘定を済ませ、其の儘(まま)埠頭に立ち出でて、船から上陸する客を透かし眺め、一々に検めて居たが、最後に上って来た客の姿を見て、つかつかと進み寄り、低くい声で、
「永谷君」
と言うと、その人ピクリっと驚いて、
「オオ皮林君か、」
と問い返した。
今船から上って来たのは、実に常磐男爵の甥永谷礼吉で、迎いに出たのは即ち皮林育堂である。二人共前もって時日を打ち合わせて、此処に出会ったものと知られる。永谷は早口に、
「君が茶店で待つて居ると云う事だったから、此処で呼ばれてびっくりしたよ。」
皮「イヤ、あの茶店では十分な密話は出来ない。直ぐに是から馬車に乗り、僕と一緒に巴里まで来給え。」
永「イヤ、巴里まで行っては、又二日か三日余計に日を費やさなければならない。この頃は何でも、伯父から厳しい指図でも来たと見え、留守居の者が隙間なく僕の挙動に注意して、詳しく伯父へ知らせて居る様子だ。今度なども君が是非とも来いと云うから、やっと誤魔化して出て来たので、予定より永くなると大いに怪しまれる。」
それだけ常磐男爵が君を疑い、君の身が危険に成って居る。それだから僕が至急に相談があると云い呼び寄せたのだ。今度こそ最後の相談を決めなければならないから、緩々(ゆるゆる)と話をする為巴里までー」
この悪人の最後の相談と聞き、永谷は恐ろしそうに身を震わせ、
「巴里まではどうしても行かれないよ、この辺の案内は僕が好く知っている。少し行くと宿屋が有るから、其処で泊まろう。そして今夜の中に君の話を聞き、僕は明日の船で直ぐに英国に帰ろう。若し君、今迄辛抱したものが、永く家を空けて、それが為に再び勘当される様な事に成っては実に詰らない。」
皮林も道理と思ってか、
「それもそうだ。」
と返事して、是から二人連れ立って、近辺の旅亭を尋ねて、投宿したが、又如何の様な企みを相談しようとするのかは分からない。
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