巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune26

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.11.19

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

                二十六

 是から皮林育堂は男爵の言葉に従い、連れられてその屋敷に行ったが、彼れの才、彼れの弁は少しの間に男爵の心を迷わせ、この後は又と無い珍客の様に思われ、毎日この屋敷に来る事と為り、果ては阿部村の宿を止め、永谷礼吉と同じく、男爵の客分として、この屋敷に逗留する迄になった。

 この屋敷の仕来たりとして、毎年秋期には主人の知り人を遠近より招き集め、幾日幾週の長い間逗留させて、懇親の情を温め、共に様々の遊びを催す事があるが、今年も秋既に半ば近く、最早や諸方の客を招く可き時になったので、男爵は新夫人と共に、日々招待状を出すのに忙しく、特に今年は新夫人の披露を兼ね、例年よりは倍ほどの人を招くとやらで、その用意も大変であった。

 皮林育堂はこの様な来客の逗留する間は、自分も気兼ねなく逗留出来るので、その間に事を果そうと思う様に、その計(たくらみ)が、如何なることかは知り難いが、男爵と膝を交える度に、それと無く永谷礼吉の人柄を褒めて止まない。

 礼吉が男爵に勘当せられて、今まで二年ほど身を謹(つつし)み、人の口端(くちは)に掛らずに暮らしたことは、今時の年少紳士には例の無い所であると云い、或いは又永谷の様に贅沢に育った身が、急に勘当せられれば、必ずや失望の余り、或いは博打に身を委ね、或いは酒色に溺れ、或いは多くの借金を作り、他人に一方なら無い迷惑を掛けるはずだが、

 永谷はそうでは無くして、只管(ひたすら)に謹慎し、行ないを正した事は、心の底に流石貴族の天性を備えている所がある為だなどと、あからさまに直接は褒めずに、遠回しにその意を洩らし、更に、永谷の勘当以前の不身持ちは、必ずしも当人の罪だけでは無く、余りに気儘(まま)を許し過ぎた境遇の罪であるなどと云うのに、男爵は追々に感心し、口には出さなかったが、心の中で、さては永谷への我が仕向け方が、寧ろ邪険に過ぎたかなと自ら思い直す程となった。

 皮林は男爵のこの様な心を見て取って、今は是だけで充分だ、この上の計略は、唯時節を待つ外無しと、気長くその時を伺って居た。
 この様にして幾日も経ないうちに、追々に招かれた客は到着して、広い屋敷の室々に満ち渡る程となったが、誰一人として、新夫人の顔と心の美しさに感心しない者は無く、この様な美人が何れの土地に潜んで居たのだろうと窃(ひそ)かに怪しむばかりだったが、何れの時、何れの社会でも、妻の余りに美しいのは、得てしてその良人(おっと)が笑われる種となる者である。

 特にその良人(おっと)が早や五十にも近いのを見ては、嫉(ねた)ましさも有り、羨ましさも有り、男爵の前で褒めて、後ろで悪口を云う人は無い訳が無い。しかしながら、男爵は後で人が如何なる評を逞(たくま)しくするのを知ら無い。唯だ新夫人が褒められるのに満悦し、笑顔の止む暇も無かった。

 数多い客の中に、男爵が若い頃からの親友とし、非常に懐かしく思い、又最も尊敬するのは、多年英国の陸軍に在って、剛直の名を轟かし、今は罷役と為って、田園に帰り臥す、老武官小部石(コブストン)大佐と云う人である。読者は知っている事でしょう。この人は即ちかつて悪人古松と云う者に殺された、彼の船長立田の叔父である事を。

 この人だけは、その言葉はその心と同じく、前に諂(へつら)い、後ろに笑う様なことは無く、何事も思うが儘(まま)を口に言って、更に憚(はばか)らない気質なので、男爵は早くこの老友が何と云って、我が妻を褒めるかを聞きたいものと、只管(ひたすら)に二人が差し向かいと成る機会を待って居たが、漸(ようや)くその機会を得、他の人々が皆自分銘々の部屋へと、退いた後に、小部石大佐唯一人接待室に残るのを見たので、男爵は今だと思い、両手を広げて、大佐の傍に寄り、多年の打ち解けた交わりに何の飾りも無い言葉で、

 「のう、老友、己(おれ)は最う早くお前の口から、何とか祝詞(しゅくじ)を聞き度(た)いと待って居たが、痛(きつ)う機嫌の悪いのは何うしたのだ。」
 大佐は犬の唸(うな)る様な語調で、
 「己(おれ)の祝詞(しゅくじ)は聞か無い方が好いだろうよ。己(おれ)はもう、先程から大勢の馬鹿な客が、お前の前で、目出度いの何のと云うのをヤット辛抱して聞いて居た。彼等は今頃は銘々にお前の悪口を言って居るのだ。ドレ己(おれ)も行ってその仲間に入ろう。お前の前で、自分の思う儘(まま)を云って、何も老友と喧嘩するには及ばないことだ。」
と云い、更に大声で打ち笑った。男爵は、

 「何だ、お前は己(おれ)を馬鹿だと云うのか。エ、老友。」
と不愉快そうに問詰めるが立腹した様子は無い。何と言われても腹の立たないのは、茲等(ここいら)が老友の老友である所だろう。
 小「爾(そう)サ、五十に成って、十九や二十の妻を娶り、余り賢人とも云われないだろう。」

 男「ハハハハ、お前は未だ己(おれ)の妻を見ないから爾(そう)云うのだ。見れば必ず感心するよ。」
 小「見ても駄目だよ。美人で無くて醜婦なら己(おれ)は感心して、ウム褒めてやるかも知れないが、醜婦で無くて美人ならば、褒めたくても褒められ無い。何うしてもお前が馬鹿に見えるよ。」

 折りしも次の部屋の方から、絹服の音爽やかに新夫人園枝、前から我が良人(おっと)の老友と聞く、小部石大佐に挨拶しようと、此方(こなた)を指して入り来ようとする。男爵はそうと見て、
 「まア、老友、そう邪険な裁判を下す前に、己(おれ)の妻を良く見て呉れ。此の婚礼が馬鹿気て居るかか居ないかは妻の顔で分るから。」
と云った。



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