巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune31

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.11.24

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

             三十一

 「本当にネエ」
と云う小浪嬢の異様な言葉に男爵は益々燥立(いらだ)ち、嬢が且つ怪しみ且つ悔いる様にその顔を背けるのにも構わず、更に又詰め寄せて言葉鋭く、
 「貴女は何だか私の言葉を怪しむ様に見えますが、何をその様に怪しみ成されます。私の妻と皮林育堂氏とは、兄妹でも従兄弟でも無いのが、何が怪しいのです。」
と問い詰めると、小浪嬢は前から新夫人を傷附けようとする我が目的が、愈々旨く行くのを見て、心密に喜びこそすれ、少しも気の毒とは思って居ないが、巧みに後悔の色を装い、地にも入りたい程の様を見せて、

 「先(ま)ア、如何したら好う御座いましょう。この様な粗相ばかり申し上げて、どうぞ御免なさって下さい。イエ、ネ、幼い時からの長いお友達は、如何(どう)かすると従兄弟か兄妹の様に見えますよ。その親しみ合う様子は如何しても親類の様ですもの。」

 アア是を聞き捨てに出来るだろうか。初めは親類と云い、言い直して従兄弟と云い、更に咎められて兄妹と云い、今は又その過ちを謝しながら、幼友達と言う。若しこの相手が男子だったなら、男爵は血走った眼で、即座に決闘をも申し込み兼ねなかっただろう。唯繊弱(かよわ)い一婦人で、而も我が家に招かれて来た珍客の一人である。男爵は殆ど手甲摺(てこず)る想いで、

 「貴女は、失言に失言をお重ねなさる。妻園枝と皮林育堂氏とは幼友達で無いのは勿論、少しの行き来も無い人です。妻も私もアノ方に何の縁故も有りません。唯だアノ方が音楽に妙を得て、妻と合奏の相手に成って居る丈です。妻も私もアノ方に逢ってから未だ二週間とは経ちません。」
と今は少しの思い違いさえ出来ない様に、事細かに言い切ると、小浪嬢は再び、

 「オヤ、本当にネエ。」
と叫ぶ。
 この度は何となく呆れる様な口調を帯、又男爵を愚弄するかとも疑われるこの一語、実に男爵の気に障ることは並大抵では無い。
 嬢は更に我が語を補い、
 「ホンに私は久しいお友達同士だと思いました。尤も夫人は伊国の方で、そうですね、伊国の婦人は私共の様な寒国の生まれと違い、万事に遠慮が少なくて、極打解け易いとか云いますから、それでアノ様に親しく見えるのでしょう。」
と結んだ。

 是でさえも少しも有難い弁解では無い。男爵は胸に有耶無耶(うやむや)と霧立ち込めた心地で、我が不愉快を払い尽くす方法が無く、言い返したいことは、数多あるが、この言葉を聞き、ドレ我が妻は、何れ程皮林育堂と親しいのだろうと、我知らずその方を見ると、今しも両人は第一曲を奏し終わって、皮林はピアノの台に向った儘(まま)に控え、園枝は既に自分の席に帰り座し、全く皮林と離れて有るが、今や人々の第二曲の所望に迫られ、又立って皮林の傍に行こうとする様子である。

 男爵はそうと見て、左右の思案を廻らす暇なく、遽(あわただ)しく立って、突々(つかつか)と園枝の傍に馳せ到り、今まで園枝に向って発した事も無い程の断固たる口調で、
 「今夜は最うお歌いで無い。」
と命じ、命じ終わって初めて、我が言葉が、余りに穏やかでは無かったことに心付き、

 「この上歌っては疲れるから。」
と云い足した。アアこの様に補ったからと言って、折角の客の所望に、是から音楽台に上ろうとする者を、突然に差し留めるのは勿論紳士の作法として、有るまじき所にして、妻に対しても、又客に対しても不躾(ぶしつけ)の所業(しわざ)であるが、園枝はそれとも気附かないのか、笑顔で男爵に振り向いて、

 「ナニ、是れ位では未だ疲れません。皆様の御所望なら、もう一曲歌いましょう。皮林さんさえお疲れでなければ。」
と云った。連弾の相手である皮林の疲れを察して、この様に云うのは、主人たる園枝の身に取って、極めて当然の会釈で、男爵も之を知らない訳では無いが、何故か今夜に限り、園枝が特に皮林を庇(かば)うかの様な心地がせらる。

 皮林はそうと聞き、
 「イヤ、私は夫人のお伴で弾くならば、徹夜でも厭(いと)いません。」
 是も紋切りの挨拶だが、男爵は再び断固として、
 「イヤ皮林さんが爾(そ)う仰って下さるは有り難いが、園枝、和女(そなた)はもう歌わない方が好い、毎夜この様に歌っては疲れるよ。疲れるよ。」

 言葉は親切な言葉であるが、その言い方は日頃の親切とは全く変わっていた。とりわけ、聞けば聞くだけ益々其の後を聞きたくなる絶美絶妙なる歌に対し、更に後を勧(すす)めることこそ、その情である。多年音楽に苦しんで二曲や三曲には疲れないと充分に知りながら、この様に停(とど)めるのは、汝の歌は面白くないと云う様にも聞こえる。

 園枝はこの様な所までは気を廻さず、穏やかに席に復し、唯何気ない体で楽譜の表紙を眺めていたが、幾分か心の興を折り挫(くじ)かれた事は明白である。日頃ならば、男爵は必ずその傍に寄り、たとえ妻の心に、不興の気合無しとしても、何とか言って労(いた)わるべき所なのに、男爵は忌々しい気がせられ、妻の傍にも寄ろうともしなかった。

 この様に差し止めて、妻にも皮林にも、手持ち無沙汰の想いをさせて、自分はその儘(まま)退いたが、殆ど神経の惑乱した者とも言うべきか、胸のうちは掻き乱れて、静かに前後を考える事も出来なかった。この部屋に居るのさえも、心地好くなく思うので、窓から外に抜け出で、庭から来る冷ややかな風に顔を曝(さら)したが、心はまだ鎮まらず、行きつ戻りつ縁側を三、四度びも歩む折りしも、窓の中から洩れ聞こえるのは、又彼の小浪嬢の話声である。

 誰に向って云って居るのかは知らないが、確かに園枝と皮林の噂である。
 「ネエ、貴方、この儘(まま)に捨てて置いては、何の様な仲になるかも知れません。気の附かない男爵がお気の毒ですよ。私は多分親類か幼馴染で、それでアノ様に親しいのだらうと思いましたが、聞けばタッた二週間前からの知り合いだと云いますよ。それにしては余り慣々し過ぎるじゃ有りませんか。最も夫人は素性も知れない無教育の女ですから、貴夫人の心掛けだの、操だのと云う事を知らないのも当然ですが。男もヅーヅし過ぎますよ。」

 アア何と云う毒語だろう。是れ実か、是れ虚か。男爵は深く考えて見る余裕は無い。唯だ我が胸に毒矢を射込まれた心地がするのみ。


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