巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune36

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.11.29

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

            三十六

 嗚呼(ああ)今日の遊山、如何(どれ)ほどか楽しいことだろう。客も揃い、馬も車も揃った。この上は、唯だ馬に乗る人と車に乗る人とを分け、又車には誰と誰と相乗りすべきかを定めるだけだ。この様な事は、主人(あるじ)から指図する者では無い。銘々随意に任せて置けば、馬を好む人は馬に乗るだろう。馬車を好む人は又、馬車に気の合う同士選び合って、相乗りする事となるだろう。

 それで、来客一同、馬と車の間に集まり、互いに相乗り相手を探し求める中に、独り夫人園枝だけは、婚礼の時に、男爵が新調して贈って呉れた、二頭立ての大馬車がある。寛(ゆるや)かに四人乗れる広さで、婚礼以来、外に出る度に、必ず男爵と共に之に乗っていたので、今日も勿論男爵と相乗りして、更に男爵の気の合う人二人を、男爵の見たてで招き入れる事になるだろうと思い、自分はこの馬車の傍に立ち、男爵の来るのを待っていると、そうと見た客の人々は、我れこそ男爵夫婦と相乗りの栄誉を得ようと、集まって来て、園枝の傍らに立っていた。

 園枝は最早や男爵の来そうな者なので、この数日男爵が自分に向い、非常に余所余所(よそよそ)しかったのも、今日この馬車に乗れば、客の手前に対しても、打解けない訳には行かないだろうと、心密に物嬉しく、先ず男爵の方を見ると、不思議なことに、男爵は全く妻園枝を忘れ、又この馬車を忘れた様に、ここに来ようとはせず、馬丁(べっとう)を呼び、馬を引いて来いと命じつつ有った。
 園枝はハッと思い、我知らず顔を赤らめたが、そのうちに馬丁(べっとう)が、乗馬を引いて男爵の前に来ると、男爵は非常に平気で之に乗り、

 「サア、馬連は馬同士だ。」
と云いながら、他の乗馬紳士の方に向おうとする。
 是れは実に、新夫人園枝を有るか無いかに取り扱い、客に対して、園枝を妻とも想わない事を示すのと同じなので、園枝もここに至っては、腹を立てない訳には行かず、

 「アア、我が良人(おっと)は、この遊山から、私を退物(のけもの)にしようとするのか。
 何の罪、何の科(とが)も無い私が、如何してこの様な辱しめを受けなければならないのか。妻と云い、良人と云うのは、その仲に非常に睦まじい情があって、割くにも割くことは出来無いものだ。一体と為って世間に向うからだ。

 良人(おっと)は既にその情を割き、世間に対して、夫婦の愛が既に尽きた事を示して居る。如何(いか)に良人に従うのが妻の道とは言え、事に由り、場合に由る。
 道に背いたこの良人の仕向けに、何で無言で従われよう。寧(いっそ)の事、自分は遊山には加わらず、屋敷に留まって留守居をする事にしようか。」

と、園枝は忙しく考え廻していたが、馬車の傍に来た今と為っては、群れ集う客の思惑に対しても、その様な事は言える筈も無い。
 更に又思い直し、自分が折れて、良人の傍に馳せて行き、言葉を卑(ひく)くして、
 「どうかその馬を降り、曲げて私と彼の馬車に相乗りして下さい。」
と願って見ようかとも思ったが、園枝の気質は、舌の根が腐っても、我と我が身を辱しめる様な、その様な振る舞いを行う事は出来ない。

 自分に何の悪事も無いのに、自分から折れて出られるはずが有るだろうか。本来は男爵が先ず我が傍に来て、
 「今日はこれこれの次第なので、相乗りすることが出来ない。和女(そなた)は誰々と相乗りせよ。」
と指図を与えるべきが当然なのに、指図無く、言い訳も無く、妻の一分を無き者にするこの振る舞い、自分から折れて出れば、自らこの身に、男爵からこの様な仕向けに逢うだけの落ち度がある事を、承知するのも同じ事になってしまうと、気位(きぐらい)の非常に高い日頃の性質から、自分を曲げる事が出来なかった。

 ここは何気なく馬車に乗り、客の人々に、この夫婦が今日に限り、相乗りしないのは、夫婦別々に客を待做(もてな)そうとする為で、前から相談して決めていた者だろうと思わせるのが、自分の勤めだろうと、胸一ぱいに張り裂ける涙を呑み込み、殊更に笑顔を浮かべて、唯一人、非常に広い馬車に乗ったのは、憐れとも何とも言い様が無かった。


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