黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

捨小舟 　　（博文館文庫本より）（転載禁止）

メアリー・エリザベス・ブラッドン作　　黒岩涙香　翻案　　トシ　口語訳

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　　　　　　　　　捨小舟　　前編　　　涙香小史　訳

　　　　　　　　　　　　　　　　三十七

　園枝は涙を押し隠し、強いて笑顔を作って、唯独り非常に広い馬車に乗ると、傍に立っている紳士達は、果たして園枝が思った通り、夫婦別々に客を待做（もてな）す為だろうと見て取ってか、それほど怪しむ様子も無く、我れ先にと園枝を扶（たす）け、園枝が雨天の用意として携えて行く傘、外套などを捧げ持って、馬車の中に運び入れた。

　良人（おっと）男爵は馬の上から、園枝がこの様に良人を何とも思わずに、馬車に乗る様子を見、自分の悪い事を顧みず、又園枝の心が如何ほ（どれ）ど辛いのかをも察せず、唯嫉（ねた）ましさ、腹立たしさに耐えられず、馬を一方に寄せ乍（ながら）も、絶えず眼の隅から園枝の様子を見張り、

　「ええ、俺の相乗りしないのを結局幸いと思って居る。良人が傍に居なければ、若い男と相乗りが出来ると思い、戯（ふざ）け狂うのも勝手だと思っているのだ。自分の心で愛しもしない良人の傍に繋（つな）がれているよりも、暫し良人の事を忘れ、他人と共に乗る方が清々すると喜んで居るに違い無い。」
など邪推に邪推を重ねながら、益々我が身、我が心を苦しめるのは鈍（おぞ）ましき限りであるが、嫉妬の心が一旦兆しては、こうなって行くのが常なので、今更如何（いかん）ともしようがない。

　この様な折りしも、園枝の馬車に急いで来たのは、彼の倉濱小浪嬢で、嬢は其の鋭い眼で、早くもここに夫婦破裂の端を開いたと見て取ったので、言葉の中へ針を隠し、
　「何うも男爵と貴女が今日に限って、別々にお乗り成すったそのお心懸けには感心致しました。」
と云う。

　是、上辺を聞けば一通りの挨拶であるが、言葉の裏には、
　「御身は早や、男爵に愛想を尽かされようとしているのではないですか。」
との心を充分に込めていることは、他人には知られていないが、園枝だけには明白なので、園枝は胸を刺されるより痛く、ここまで勤める我が心も、早やこの人に見破られたのか。我が振る舞いには、未だ端下無い所がある為だろうと、大いに自ら顧みて、嬢の疑いを全く打ち消そうと思い、殊更声高く笑った。

　是れは、自分と良人の間には、少しも気に掛る事は無いと証明する者で、この様な微妙な応答は、唯婦人と婦人が、向かい合った時だけ好く行われることだが、男子には到底する事の出来ないやり方だ。
　男爵は此方（こちら）に在って、この笑い声を聞き、その泣くことよりももっと辛いのを思わず、

　「アア、愈々俺の思う通りだ。俺の事は全く忘れて居る。何だ嬉し相な笑い声は。」
と呟（つぶや）き、是からして、少しも眼を園枝の馬車から離さず、殆ど影の形に添う様に見張って居ると、小浪嬢は園枝の許しを得て、其の馬車に乗り、園枝と並んで座を占めた。

　未だ残る二席あるので、誰を乗せよう、彼を乗せようと園枝に相談する様子であったが、以前からこの近郷にある別荘に来て住む、某金満家の息子で、後々は年万ポンドの所得を相続する、何某（なにがし）という年少紳士を載せ、嬢自らこの人を我が前に座らせた。是れは嬢が、前から目当てとしていた所で、華美（はで）な衣服を新調したのも、是の為に違いない。

　しかしながら男爵は、この様な所に気もとめず、嬢の前に何人が座したかは度外に置き、唯だ園枝の前にまだ空いている一席は何人が占め、園枝と顔と顔を差し向かって座すだろうと、眺める間も無く、男爵の眼は忽ちに血走って来た。

　アア、血走るも道理だ、何処から現われたのか知らないが、彼の皮林育堂め、兼ねて園枝と約束でも定めて置いた様に、何の躊躇も無く、軽々と乗り移り、良人男爵は居ないだろうかと気遣う様に、先ず四辺（あたり）を見廻したが、故（わざ）と男爵の顔にだけは目を注がない。

　アア男爵が居無くて安心と云う様に、非常に落ち着いて、嬉しそうに園枝の前に腰を卸し、何やら園枝に細語（ささや）く様は、きっと、お待遠（まちどほ）で有りましたでしょうと云う様であった。
　男爵は、我知らず歯ぎしりをして、鞍壷を握り締めた。


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