巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune39

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.12. 2

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

                三十九

 アア男爵は何の為、何処に向って立ち去ったのだろう。客の相手をする主人であるのに、食事の最中に立ち去るとは尋常(ただ)事では無いと、園枝は心も平穏では居られない。今までは唯不和の為に、良人(おっと)の方から我が身に近付かなければ、我が身の方から、自ら折れて、良人に近付く事を求める道理があろうかと、高く控えて、何事も平気の様に見流そうと努めたけれど、虫が知らせると云うのか、何となく心配で、自ら落ち着こうとして、落ち着くことが出来ないので、そこそこにして天幕(テント)の外に出で、此方彼方(こなたあなた)を見回したが、良人の姿は更に見え無い。

 それに日も暮れ掛り、客一同と共に、此処(ここ)を引き揚げるべき刻限も迫って来たので、良人の居ないのは、猶更不都合だと思い、処(ところ)を定めず経廻(へめぐ)って尋ねたけれど、尋ねても尋ねても分らない。或いは下僕(しもべ)にでも聞いて見ればと思い、供待ちの為めに設けた一方の天幕(テント)に行き、差し覗くと、我が乗って来た馬車はあったが、男爵の乗って来た「オレスト」と云う愛馬は見えない。

 この様な所へ、馬丁(べっとう)が出て来たので、園枝は端下無くこの様な者へ、打ち附けに男爵の事を問う事せず、何気無い体で、
 「オレストは居るかえ。」
と聞いた。馬丁(べっとう)は怪しそうな顔で、
 「貴女は御存知が有りませんか。『オレスト』はもう半時間も前に、男爵が急に鞍を置かせ、お乗りに成って屋敷へお帰りになりました。余ほどお急ぎの様でした。」

 男爵が屋敷に急ぎ帰ったとは、益々奇怪な事なので、園枝は打ち驚かずには居られなかった。
 「エ、男爵がお帰りに成ったとは。」
 馬「ハイ、鞭を当てて大急ぎにオレストを走らせました。多分お屋敷に何事か出来たのでしょう。それで急にお使いがあったので、お食事中にお立ち成さった様に見えました。それに大道の方へは行かず、真っ直ぐに山路の方へ向けてお出ででしたが、私も実は心配して居ます。オレストはあの通り早い馬で、山道を走らせるのは随分危険な仕事ですから。」

 園「何だって山路などを。」
 馬「イエ、山路の方が半分ほども近いものですから。」
 園枝は益々心配して、
 「屋敷から誰が何と云って使いに来た。」
 馬「イヤ、それまでは存じません。唯男爵の御様子が大層お急ぎに見えましたから、多分その様な事だろうと思った丈です。」
 園「シタが、お前は何故お供をしなかった。」
 馬「ハイ、私が御一緒に参りましょうと申しましたが、旦那様はそれには及ばないと仰りました。」

 益々以って奇怪である。しかしながら馬丁は是だけしか知らないので、園枝は何ともしようが無く、若し男爵の甥永谷礼吉にでも聞いたら、或いは男爵が彼に何事をか言い置いたかも知れないと思い、又も経廻(へめぐ)り廻って、永谷を捜す折りしも、我が後ろの方から、息も世話しく馳せ来る一人があった。誰かと見ると、彼の皮林育堂にして、顔に非常に周章(あわて)た色を浮かべて居るので、園枝は若しやと心配して、早や顔を青くして立ち留まると、皮林は胸を撫で、

 「先刻から、方々に貴女を、お捜しして居ました。」
と云う。口調は確かに、非常の事変を知らせようとする前置きに似ていたので、
 「エ、エ、私を、とは何か又男爵の身の上に。」
 皮林は気の毒そうに、
 「お気の毒ですが、どうも致し方が有りません。お察しの通りです。ハイ、男爵のお身の上です。」
 園「男爵の身の上に何事が起こりました。早く仰って下さいまし、サア、早く。」

 皮「イヤ、夫人、爾(そ)うお驚き成さっては、貴女にお話申して好いか悪いか分りません。」
 園「驚いても心は失いません。何うか早く仰って。」
 皮「貴女は、落ち着いてお聞き取り成さる程の、御気力が有りますか。」
 云う所は益々尋常(ただごと)ではないので、園枝は殆ど身を悶(も)がき、

 「では男爵の身に容易ならない程の事が有ったのですね。何の様な事柄でも、私は落ち着いて聞き取ります。」
 皮「実に夫人、悲しい哉、ご推量の通りです。男爵は向うの山路で、馬の背から投げ落とされ大怪我をして、ヤルボローと云う古塔の中に、投げ込まれて居ると云う事で、古塔の番人から若者を私に知らせて寄越しました。」

 園枝は身も世も無いほど打ち驚き、
 「私を直ぐに、良人の傍まで連れて行って下さいまし。ヤルボロー塔はアノ山に見えて居ます。サア、直ぐに、その様な大怪我ではこう言って居る間も心配です。」
 皮「ハイ、使いの者の言葉に依れば、今から馳せつけて、実に間に合うか合わないかが心配されます。」

 園「誰かお医者は居ないでしょうか。外科医者は、オオ、貴方が丁度外科医者だと仰しゃりましたネ。」
 皮「ハイ、それだから私が直ぐに参ります。使いの者は、更に外に近村を馳せ廻り、医者を探して行くと云って居ました。」

 実に是れは一刻も猶予が出来ない場合、園枝は半ば狂乱の姿で、
 「サア、直ぐに参りましょう。皮林さん、私の下僕を呼び大急ぎで馬車の用意を命じて下さい。」
と云う声さえも咽喉に詰って、殆ど間に合わない想いがするのだろう。


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