巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune40

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.12. 3

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

                 四十

 男爵の大怪我の知らせに、園枝は実に半狂乱の姿で、足もよろめく程になり、
 「馬車を、馬車を。」
と云い乍(なが)ら皮林の手に縋(すが)り付いた。この時背(うしろ)の方七、八間(13.4m)を隔てた草叢の中から、此方(こちら)を睨(にら)んでいる輝いた眼あった。

 園枝も皮林も気付く事が出来なかったが、是れこそ彼の小浪嬢で、嬢は園枝の姿が、先刻から見えないのを怪しみ、日頃の端下ない心から、何事かと怪しんで尋ねながら、茲(ここ)に来たものだ。来て見るとこの有様で、園枝と皮林と双方ともに、非常に心が騒いでいる様子で、熱心に打ち語らうばかりか、おまけに園枝が皮林の手に縋(すが)るのをさえ見たので、二人の言葉はやや遠過ぎて少しも聞こえなかったが、必定不義の話とばかり思い、腹の中で、

 「本当に思った通りだ。イヤ思ったよりもっと非道(ひど)い不義者だ。二人は男爵の目を掠(かす)めてヒソヒソと話しをして居る。アア、是で愈々噂の種が出来た。」
などと呟(つぶ)やいた。
 園枝は四辺(あたり)に目を配る様な緩々(ゆるゆる)した場合では無い。更に皮林を急(せ)きたてて、

 「サア、皮林さん、早く私の馬車を呼んで下さい。何を貴方はその様にお考え成さるのです。」
云っても皮林はまだ深く考え、
 「イヤ、夫人、この様な時には充分に落ち着いて、良く考えた上で事をするのが肝腎です。若し下僕にこの事を知らせ、急に貴方の馬車を呼べば、客の人達も転倒するほど驚いて、茲(ここ)へ馳せ附け、ソレ男爵が大怪我だと口々に言い伝え、日頃男爵を尊敬するその真心を見せるのは今だと、我も我もとヤルボー塔を指して駆け付け、とても防ぎ様が有りません。

 私は外科医者と云う職業の上から申しますが、爾(そ)う成っては、男爵を治療する見込みは付きません。この様な大怪我は成るたけ静かにして、少しも当人の心を騒がせない様にして治療するのが肝腎です。今の食事で、ホロ酔いに酔って居る人達が、我先にと駆け付けては、それだけで助かる怪我人をも、殺して仕舞います。夫人、斯(こ)う云う訳ですから、貴女は何気無い顔をして、客に少しも悟らせない様、客と供に茲(ここ)で待っていて下さい。」

 園枝は殆ど腹立たしそうに、
 「良人の怪我と聞き、何うして妻が何気無い顔が出来ましょう。又自分で行って介抱せずに居られましょうか。皮林さん、それでは客には少しも知らさず、私は茲(ここ)から抜け出して行きます。ハイ、私唯一人行きます。妻の介抱さえも受けずに、古塔の中で大怪我に悩んで居る良人の心は、何の様で有りましょう。サア、誰にも知らさず私を連れて行って下さいまし。」

 勿論貞女の心は、この様で無くてはならないものだ。皮林は漸く決心し、
 「それでは誰にも知らさずに連れて行って上げましょう。私は直ぐに駆け付ける積もりで、既に極々軽い小形の馬車と極早い馬を雇い、茲(ここ)から一町(109m)ほど離れたアノ松林の蔭に待たせて有ります。余り早過ぎて山路は少し危険かも知れませんが、貴女はそれに乗る勇気が有りますか。」

 園「有ります。有ります。途中で何の様な怪我しても構いません。早く良人の傍に着きさえすれば。」
 皮「では貴女がその馬車に乗れば、私は御者台へ登り、自分で御者をして急がせます。サア、参りましょう。」
と云った。
 園枝は良人を思う一心で、この様な場合にも、良人(おっと)を何時までも古塔の中に寝かせて置くべきではないと思い続け、成る丈け早く、屋敷へ連れて行く事に運び度いと願うため、又皮林に打ち向い、

 「それにしても良人を古塔から屋敷へ移すには、アノ二頭立ての馬車が要るかも知れません。貴方は何うか密(こっそり)と下僕を呼び、後から誰にも知られない様に、馬車を持って古塔へ来いと申し付けて下さいまし。」

 皮林は心得て、
 「ハイ、それは私が旨く言い付けて置きましょう。貴女は今申す「アノ松林の蔭に行き、私の馬車の傍で暫くの間お待ちなさい。」
 斯(こ)う云って皮林は、忙しく供待ちの天幕(テント)の方に馳せ去ったので、園枝は夢路を辿る想いで、一町ほど歩み、松林の下に行くと、成ほど皮林の云った通り、非常に軽そうに見える一輌の馬車が置いて有った。

 それはさて置き、先程から草叢の影で、この様子を見て居た満二十六歳の小浪嬢は、二人の言葉を聞き取る事は出来なかったが、何しろ奇怪千万なので、この結末を見届けずには置くものかと、彼の代金未払いの衣服が、荊(いばら)に絡まるまるのも厭わず、成る丈園絵に悟られない様、草木の間を分け潜(くぐ)って従い行くと、園枝が馬車の傍で非常に気に掛る事が有る様に、両の手を握り〆めて待って居るのを見た。

 「オヤ、人目に立たない小馬車を待たせて、宛(まる)で駆け落ちの仕度とでも云い相だ。けれどナニ、幾等新夫人が素性の無い女でも、真逆(まさか)今の地位を捨て、何所(どこ)の馬の骨とも知れない皮林と、駆け落ちする筈は無い。気が違えば知らないが、左も無ければ決してーーー。」
などと漸(ようや)く呟(つぶや)き終わる所へ、皮林は帰って来た。

 まだ心が落ち着かない様子で、園枝と一言二言細語(ささや}いた儘(まま)、そこそこに園枝を馬車に乗せ、自分自ら御者となり、山路を指して馳せ出した。小浪嬢はこれを見て、
 「オヤ、愈々駆け落ちだ。本当に呆れたよ。」
と開いた口が塞がらないまでに仰天した。


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