巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune45

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.12. 8

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

            四十五

 天に翔(かけ)る翅(つばさ)が無ければ、実にこの塔から生きて逃れ帰ることは出来ない。皮林育堂は園枝がそうと見て、絶望する様を打ち眺め、
 「ネエ、昔の武人は、この塔を枕にして討ち死にまでする覚悟ですから、一生懸命の智慧を絞ってこの塔を建てたのです。吊橋一つ外せば、外から敵が押し寄せて入る事が出来なければ、内から味方が逃げて出る事も出来ません。

 最もその時、この塔を建てた人は、数千年後の今と為り、この塔が一方ならず私の便利を助けようとは、思いも寄らなかった事でしょうが。夫人、最(も)うこの塔に上った上は、何と心配しても無益です。到底帰る事は出来ませんから、そう驚かずに静かにして夜の明けるまでお待ち成さい。

 アノ吊橋はこの塔の番人の外、上げ下げする事を知りません。その番人は、先刻私が馬車を繋いで再び渡って来た時に、吊橋を落として帰りました。明朝までは出て来ません。生憎その住まいも三里(12km)の余も離れて居て、泣いても叫んでも聞こえません。」
と非常に憎々しげに宣告して、再び腰を卸(おろ)した。

 園枝は悔しそうに声を震わせ、
 「貴方は私を明朝までこの塔へ捕えて置くと仰るのですか。良人男爵は私の帰りが遅いのを怪しんで、外の人々と共にきっと心配して居ましょう。今夜一宵帰らなければ、ホンに何事が起こったかと益々心を痛めます。」

 皮「ハイ、それは無論の事です。もう様々に疑って居る事でせう。」
と云い、顔の筋一も動かさず、泰然として落ち着く様子、心に一点の情ある動物とは思われない。
 園枝はこの有様を見て、急に恐ろしさが益々益して来て、宛(あたか)も血の道《ヒステリー》に荒れ狂う女の様に、自ら我が身を制する事が出来ずに、右に左に馳せ迷い、果ては被っていた帽子も落し、長い髪の毛を乱髪にして、覆面の様に顔に掛るまで悶掻(もが)いたが、真に逃れる道は無く、如何にも仕様が無いので、漸く心を押し鎮めて考えて見るに、

 「この人は恐らくは狂人に違いない。狂人の中には、唯意地悪をする事をだけ楽しんで、様々に人を苦しめる工夫をのみ考える者が有ると聞く。この人は必ず何かの事で発狂し、急にその類の狂人と為り、理由も無く私をこの様に苦しめる者に違いない。

 アア、この様な危険な狂人と、この様な場所に一夜を明かすのは、是れ実に剣の刃を渡るより、もっと恐ろしい事だが、恐れる丈、益々彼の狂欲を楽しませ、益々彼の発狂を強くして、更にこの上に、私を虐げ苦しめる手段を、考えさせる者と成ってしまうだろう。私は唯だ落ち着いて恐れず騒がず、平生の様に仕向ける外は無い。」

と園枝は心の中で神を拝し、我と我が心を、押し鎮める勇気を与え給えと、念ずると漸(ようや)く高かった動悸も鎮まり、やや心の易きを得る事が出来たので、先ず乱れた髪を撫で上げ、落ちた帽子を拾い上げて被り直した。その様子は、まるで自分の部屋に在る時に異ならなかった。

 皮林はこの様子を見て、密(ひそか)に夫人の勇気に感じ、アアこの夫人こそ、真にその顔の美しさほど心も優れ、更に気も確かな事は世に多くは類は無いに違いない。心の腐った彼の永谷礼吉の様な者を助け、この夫人を苦しめる役廻りと為ったのは、今更残念で仕方が無いが、是も我が身の利益の為なので仕方が無い。

 若し初めから何とかして、この夫人に加担する様な位置に立っていたなら、彼れ永谷に加担するより、遥かに大きな仕事も出来たに違いなかったろうになどと、この場合に及んで未だ緩やかに考え廻すのは、流石悪人の本性だろうか。

 この様な折しも、園枝は漸(ようや)くにして、その形を正し終わり、まるで狂人を諭(さと)す様な穏やかな言葉で、
 「私は今まで他人を、露程も害した事は有りませんのに、貴方は何の為め私をこの様な目に逢わせます。貴方の今夜の振る舞いは、実に譬(たと)え様の無い残酷な所業ですが。」

 皮林も落ち着いて、
 「ハイ、貴方は他人を害した事が無いと仰るけれど、男爵の甥、永谷礼吉を害し、今も未だ害して居る事に気が付きませんか。彼は勘当せられたのは、貴女が男爵に逢う前なので、勿論貴女の所為では有りませんけれど、貴女さえ無ければ、その後随分勘当が許される見込みも有ります。貴女が有っては、到底男爵の財産が永谷に伝わる見込みは有りません。」

と非常に爽やかに延べ来る様は、狂人らしくもないので、園枝は少し怪しんで、不思議に思うに、皮林は語を継ぎ、
 「夫(それ)ですから永谷礼吉が、世に出る工夫は、唯だ貴女を傷つけて貴女の名誉を落とし、再び世にも良人にも顔向けの出来ない様にする外は有りません。」

 アア、何という邪険なことだろう。罪ない夫人をこれ程までに辱しめ、再び浮ぶ瀬の無い者と為し終わって、満足しようとする。
 園枝はこの恐ろしい言葉に、又も身を震わせながら、
 「エ、私を世にも良人にも顔向けの出来ない様に。」
 皮「ハイ、今までは貴女は常磐男爵の新夫人で、実に女王の次にも就く程に、世間から崇められて居りましたが、明朝はもう英国中で殆ど貴女ほど不名誉の貴夫人は有りません。貴夫人では無く、堕落の底に沈倫した、汚らわしい女だと誰も彼も思います。ハイ、逢う人皆、貴女を見て爪弾きを致します。」

 園「とは何う云う訳で。」
 皮「オヤ、貴女も悟りが悪い。今夜この所で私と差し向いで一夜を明かせば、誰が貴女を清い女だと思いましょう。良人(おっと)の目を忍び、私と不義の快楽に耽(ひた)るために、そうです、家をも身分をも思わず、大恩ある良人を捨てて駆け落ちをした者だと、今頃は良人男爵まで思って居ます。ハイ、貴女は既に不義者と認められて居るのです。」

 園「エ、エ、エ」


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