sutekobune51
捨小舟 (博文館文庫本より)(転載禁止)
メアリー・エリザベス・ブラッドン作 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
since 2014.12.14
下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください
更に大きくしたい時はインターネットエクスプローラーのメニューの「ページ(p)」をクリックし「拡大」をクリックしてお好みの大きさにしてお読みください。(画面設定が1024×768の時、拡大率125%が見やすい)
捨小舟 前編 涙香小史 訳
五十一
婚礼後、未だ幾月を経ずして新夫人、情夫と共に逃亡す。そうだ逃亡に決まっている。嗚呼(ああ)是れは何という不名誉だ。名誉非常に高い男爵家を、恥辱の底に沈めるものだ。男爵はこの様に思ったので、最早他人に顔を合せる力は無い。老友小部石(コブストン)大佐にすら、憂いに狂う我が姿を見られるのを嫌う。
しかしながら、大佐は何時までも戸を叩いて止めないので、仕方なく男爵は強いて我が顔色を正し、強いて身姿を繕(つくろ)って、力なくなく内から戸を開くと、大佐は入って来て、男爵の顔を一目見るなり、相も変わらない磊落な口調で、
「何だ、一宵寝ずに明かしたな。」
男爵は隔て無い老友にも、恥ずかしさを隠す事が出来ず、殆ど面目無さそうに、
「何(ど)うして夫(それ)が分る。」
大佐「お前の眼で分るのサ。瞼(まぶた)が赤く腫れて居るワ。」
男爵は包み隠す事が出来ず、
「老友、真に禍いが湧いて来た。不幸な事に成って仕舞った。」
大佐「エ、不幸、お前の女房が逃亡した。夫(それ)をお前は不幸と云うのか。」
男爵は又一層絶望した。
病気の為に昨日まで部屋に引き籠って居た大佐の耳にさえ入るからには、此の事は既に客一同の評判に為っているのだろうか。
「エ、エ、もう客一同が夫(それ)ほど何も彼も知って居るのか。醜聞を、エ、此の醜聞を。」
大佐「醜聞とは何を云うのだ。」
男爵「妻園枝の逃亡を」
大佐「爾(そう)サ、何だか密々(ひそひそ)と細語(ささや)いている様子だ。夫(それ)だから己が茲(ここ)へ来たのだが、併し老友、客が何と思っても構わんだろう。客の推量は皆嘘だよ。決して醜聞と云う事実は無いのだ。」
と云い切った。
男爵は強いて笑顔を作ろうとしたが、其の顔は非常に苦り切ってて、見るのさえも気の毒なほどの苦笑いと為り、
「爾(そう)さ、老友、俺も嘘だと言い切って、客の疑いを掻き消し度いが、何うして嘘と云われよう。園枝は逃亡に違い無い。下僕などに充分調べさせて見たが、逃亡に極(きま)まって仕舞った。」
と云いながら椅子に身を投げて、身体も心も沈み込んだ。
大佐は更に断固として、
「嘘だ。嘘だ。俺は決して信じないよ。コレ老友、良く聞かッしゃれ。お前が妻を迎えたと聞き、俺は第一にお前の前で馬鹿な男だと誹(そし)っただろう。夫(それ)から夫人の顔を見ると、俺の思って居たのと違うから、成る程、是では婚礼したのも無理は無い。お前は左程の馬鹿では無いと、サア俺はその様に思った。今も未だそう思って居る。人の人相は知ら無いけれど、俺の見た所で、園枝夫人ほど心の清い女は無い。其の後も俺は度々園枝夫人を見て感心して居る。アノ清い心で何うしてその様な事が出来る。園枝夫人はソレお前が日頃愛して居る、重代の宝剣よりまだ確かだ。更に輝いて居る。お前に夫(それ)が分ら無いか。エ、老友。私は何所までもそう思うから、此の意見をお前に告げる為に来たのだ。」
アア、唯だ一人の老友と頼む大佐から、この様にまで云われては、闇よりももっと暗い心の底に一点の光明が差し入る心地して、男爵は口に尽くせ無い程打ち喜び、
「オオ、爾(そう)云って呉れるのは有り難い。お前ばかりだ。」
と云い、我知らず其の手をを取って握り〆るのは、是こそ親友の親友たる所に違いない。
他人さえまだこの様にまでに云って呉れるのを、良人(おっと)たる当人が自分から気を落とし、益々客一同の笑いを招く様な事をして好いだろうかと、男爵は漸(ようや)く自ら励まし、今までは、人に顔を見られるのが、何より辛いと思って居たのを、奮発して、好し誰が何と云おうとも、泰然と落ち着いて、我が名誉、我が家名、未だ厘毫(りんごう)も傷ついていないのを、示さずには置くべきでは無い。此の上更に如何なる事に立到るとも、我は飽くまで男らしく断固として不名誉と闘い、禍と戦おう。
この様に思い定めたので、勇気が何時もに復した心地がした。依って先ず小部石大佐を返した後で、自ら顔を洗い、衣服まで着け替えて、毎(いつ)もの様に悠然として食堂に行った。客一同は既に着席して茲(ここ)に居た。その中に唯妻園枝の一席のみ、空いた儘(まま)に残っているのは、流石に奮発した心も又鈍らすほど辛く、腸(はらわた)に徹(こた)えたが、更に我慢して非常に静かに我が席に着いた。
毎(いつ)もならば、食事の終るまで、笑い動揺(どよ)めいて打ち興ずる一同だが、今朝に限っては、一語をも発する者無く、唯だ義理の様に何やら細語(ささや)く人は有るが、其の声は沈んで、隣の席の外には聞こえない。人々空しく俯(うつむ)いて、我が手元だけを眺める中にも、何となく男爵の顔を時々偸(ぬす)み見る様子があった。
給仕も爪先で抜き足の様に歩んだ。実に是ほどの欝(ふさぎ)込んだ会食は又と見る事はないと思われ、宛(さ)ながら危篤である病人の枕元に、夜通し居る一群に似ていた。群れの中で未だしも一番其の席に落ち着いて見えるのは男爵で、強いて自ら落ち着いている様を粧(よそ)っているのは明らかなれど、天晴れ男爵の主人としての我慢は有ると人々は私(ひそ)かに感じたことだろう。
男爵は客一同に対して、時々話しを持ち掛けたが、返事する人有っても、其の話を継ぎ、面白く枝葉を付ける人は無い。一尺とも一寸とも延びないうちに話は切れ切れとなって終ることは、毎(いつ)もの、留度無く延びて行くのとは同じでは無い。本来なれば、主人の役目として、
「昨日の遊山は」
と客一同に問掛けるべきことは勿論なれど、是だけは如何に男爵が奮発しても問掛けることが出来なかった。
客も非常の禁句としているのか、自ら語り出す勇気は無い。
其の中で男爵は、例(いつも)の様に、昨夜から今朝へ掛けて来た手紙を、僕から受け取って、一々に検めて、客に示す可きは示し、自ら読む可きは読むこと、全く虚心平気の人に似ていたが、手先の微かに震えるのは隠そうとして隠すことが出来なかった。是れは其の心が、まだ如何ほど騒いでいるかを知るのに足りる。
愈々(いよいよ)此の類(たぐい)の役目を終いると、男爵は此の上に虚心の様子を装うことが出来ず、又も逃げる様にして此所を立ち去ったが、何故にか、男爵の甥永谷礼吉は廊下まで男爵の後を追って来て、
「貴方に少しお話が有りますが。」
男爵は甥にまで様子を繕(つくろ)わなければ成らない場合なので、振り払うことが出来ない。
「話が有るなら居間まで来い。」
と云い、永谷を従えて居間に退き、内からその戸を鎖(とざ)して置き、漸く彼に打ち向うと、彼は非常な心配が有るのか、殆ど色も青冷めて見えるので、男爵は
「何うかしたか。」
と聞いた。
永谷は此の問いを寧(むし)ろ恨めしそうに、
「伯父さん、其の様に仰っても貴方の御心配は好く存じて居ます。夫(それ)を私が余所に見て、心配もせず知らぬ顔で居られましょうか。」
親身の甥の口から出て来る此の返事は、非常に腸(はらわた)の底に浸み渡る思いが有るが、更に我慢して、非常に厳かに、
「コレ、礼吉、何れほどの心配でも、俺の様な身分になれば、人から其の心配を察せられ度く無い場合が有る。俺は誰からも慰めの言葉を聞き度く無い。」
礼吉は忽ち合点し、我が言葉を悔いる様に、
「イヤ、爾(そう)とは存知ませず、何うか御免下さい。実はこの様な場合に聞き込んだ丈の事を、貴方にお知らせ申しますのが、甥の勤めかと思いまして、ツイ出過ぎました。」
と打ち萎(しおれ)るのを、男爵は茲(ここ)に至って我慢も尽き、今まで耐えに耐えていた絶望が一時に発した様に、
「オオ、許して呉れ、礼吉、其の方の前まで何も他人らしくするには及ばない。ドレ、其の方は何の様な事を聞き込んだ。園枝の逃亡に就いての事なら何事でも聞かして呉れ。俺はもう気が違う。もう他人の前に居る様に、我慢して居る事は出来ない。コレ、礼吉、俺はホンに不幸な境遇に成り果てた。コレ。」
と云い、顔を両手に推し隠して泣き崩れた。アア驕(おごり)り高ぶって、人と折れ合わない貴族でも、この様になる。其の情を思い遣るのさえ、痛わしい限りと云わなければならない。
a:736 t:1 y:0