巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune60

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.12.23

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

              六十

 アア新夫人園枝は良人(おっと)の疑いを言い開く方法も無く、家を捨て栄華を捨て、再び浅ましい石畳の上に帰ろうとして、着の身着のまま立ち去って、何処かに行った。男爵は唯だ情夫皮林の許へ行った者とばかり思って、深くは探そうともしない。却(かえ)って益々打ち腹立ち、一室に退いて、全く園枝を寄る辺無い者に仕果(しおお)せ、再び此の家に帰ることが出来る手掛かりも、無い境遇に貶(おと)す為め、今までの遺言状から、園枝の名を削り捨て、更に永谷礼吉を相続人と定めた新遺言状を作ろうとする。

 是で夫婦の仲は全く破れ尽くし、憎むべき皮林育堂の深い企計(たくらみ)は、全く思う通りに運んだ者と云える。
 男爵がこの様にして、一室に退いて新遺言書を作ろうとするうちにも、彼れ皮林育堂は穢(むさ)くるしく旅商人に身を窶(やつ)し、窓の外から男爵の様子を瞬没(またた)きもせずに覗(のぞ)いていた。しかしながら男爵は、そうとは知らない。

 先ず今まで園枝を相続人と定めていた旧遺言書を取り出し、幾度と無く読み返して、つくづくと自分の身の鈍(おぞ)ましさ《愚かさ》を感じた様に、
 「アア、馬鹿な事をした。アノ様な女に此の財産をーーー、夫(それ)でも今気が付いたのが未だしも幸いだ。再び心が迷わない中に、早く新遺言書を作って仕舞おう。」
と言い、墨筆を取り出し、厚い紙を延べ開いて、其の文句を考えながら、徐々(そろそろ)と書き始めたが、何さま打ち続く心の激動に、非常に逆上した際なので、思う事も後や先に混雑し、文句も容易に出て来ず、唯だ其の赤く充血した前額に、点々と脂汗が伝わるばかり。

 頃は早や秋も末近く、汗が出てくる時ではないのに、男爵は幾度と無く前額を拭い、自らも煩悶《悩み苦しむ》するばかりだったが、
 「イヤ窓でも開ければ少し気持ちが好くなるだろう。」
と云い、立ち上がって彼の皮林が覗いて居る窓に行き、其の戸を開くと、皮林は早くも身を避けたので、其の姿は勿論男爵の目には留まらない。

 男爵は暫(しば)し前額(ひたい)を窓の空気に晒(さら)したが、吹き来る風も無いので、窓は閉めずに唯垂れ帳(まく)だけを引き、再び元の席に復(もど)り、又も遺言書を書き始めたが、凡そ一時間ほどにして、漸(ようや)く認(したた)め終わった様に筆を置いて、初めから読み直し、

 「アア是で好い。斯(こ)うして置けば、何時己(おれ)が死んでも、此の家の財産は安全だから、己は安心して仕事が出来る。爾(そう)さ、アノ皮林と云う奴を探し出し、犬猫同様に射殺すのが己の仕事だ。ドレ奥へ行き家扶と従者を呼んで来て、此の新遺言書が、全く己の正直な中に出来たと言う証拠に、二人を立会いに定め、己の名の後へ二人に記名させて置こう。」

 この様に言って、男爵は家扶と従者を呼ぶ為と覚しく、立ち上がって奥の間へ退いたが、今まで窓の外で息を凝らして待って居た皮林は、男爵の姿が次の間に隠れるや否や、直ぐにヒラリと身を躍らせ、窓を飛び越して部屋の中に身を入れながら、男爵が向っていた卓子(テーブル)を指して忍び寄ると、足音は深い絨毯に埋まって、少しも聞こえない。それに彼は身が軽い男なので、この様な忍びの業は慣れているのか、まるで泥棒猫が、人目を偸(ぬす)んで窺(うかが)い寄る様子に似ていた。

 やがて彼は静かに卓子(テーブル)に寄り添って、墨も未だ乾かない遺言状に向い、先ず其の初めと終わりを一目見て、
 「フム、是ならば正式だ。」
と満足そうに打ち呟(つぶや)き、更に其の本文を読み取ると、全く自分が推量したものと違わず、彼の永谷礼吉を相続人と定め、耕地、鉱山、家、庭園を初めとして、正金、証書、株券などの動産に到るまで、総て永谷に譲る旨(むね)を認(したた)め、夫人園枝の事は少しも記してなかった。

 又、男爵が他日如何なる有様で死するとも、其の死んだ日から、永谷礼吉を当家の主人とし、男爵と云う爵位まで継がせる事に定めて有る。
 皮林は嬉しさに、作った顔が頽(くず)れるほど打ち頬笑(ほほえ)み、

 「何も彼も総て己(おれ)の思う通りに成った。今夜の中に男爵を殺して仕舞えば、明朝から永谷が当家の主人で、数限り無い財産が己(おれ)の自由、イヤサ永谷の自由だから、己の自由も同じ事だ。善は急げと云う通り、悪事も矢張り急ぐに限る。今夜、爾(そう)だ。今夜の十二時か一時頃には男爵は冥土(あのよ)の人だ。」
と云い、更に何か考える様子だったが、

 「イヤ、斯(こ)う云う中にも、男爵が家扶と従者を連れて来て、己を捕えれば夫(それ)までだ。遺言さえ読んで仕舞えば、先ず差し当たりの用事は済んだ。危うい所に長居は無用、大事な仕事は人々が寝静まる刻限として、ドレ茲(ここ)を立ち退(の)こう。」

と云い、初めの様に窓を潜(くぐ)り、ヒラリと外に飛び出たが、彼若し一歩遅かったならば、其の自ら呟(つっぶや)いた様に、男爵に捕らわれたことだろう。
 男爵は実に彼が窓を飛び出るや否や、僅か毛抜きの隙間ほどの違いで、家扶と従者を引き連れて此の部屋に返って来た。


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