sutekobune65
捨小舟 (博文館文庫本より)(転載禁止)
メアリー・エリザベス・ブラッドン作 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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捨小舟 前編 涙香小史 訳
六十五
怪しい亭主の退いた後で、皮林育堂は熟々(つくづく)と考えて見て、此の亭主は抑々(そもそ)も何者なのだろう。絵の具を塗った我が本性を見破って、我が本名を知っている上に、更に他人が知る筈は無いと思っていた、我が秘密を知り、我が企計(たくみ)まで大抵は察しているようだ。此の家へは常磐家の下僕などが、多数来て酒を呑み、雑話に時を移す為に、常磐家の内に在る事を多く聞き知るは最もだが、夫(それ)にしても此の亭主、余ほど悪事に眼が慣れた者でなくては、ここまで我を驚かす事は出来ない。
彼は如何なる目的を隠し持ち、此の後我に向い、如何なる事を言出すのだろうと、敵の力の奥底が分らないだけに、流石の皮林も思って見るだけで、益々薄気味悪く、殆ど我が一命を此の亭主に握られたかと疑われるほど恐ろしいけれど、唯幸いなことには、男爵が既に死し、常磐家の財産は既に永谷礼吉の手に入った後なので、口留めの工夫も無い事は無いと、漸(ようや)く多寡を括(くく)り、亭主の素性、其の外は、追々に探り究める事とし、自分は先ず、常磐家の様子を見る為に、又も昨日の旅商人の姿で、茲(ここ)を出て行った。
最も此の家を立ち出る時、亭主が若し自分の挙動を見張っては居ないかと気遣い、窃(ひそ)かに内外を見廻したけれど、亭主の姿は少しも見えなかった。
話変わって、常磐家では、彼の男爵が、大佐の毒死に驚いて、呼び鈴を振り鳴らしてから、夜明けに至るまで、その混雑と言ったら並大抵ではなかった。下女下男八方に馳廻って、医者も近在に住む三、四人残らず来て居た。看病者も来て、泊まり合わせた客なども、大抵は騒ぎに夢を破られて起きて来て、上を下へと殆ど推し合う程であったが、朝になって、其の反動で、潜(ひっ)そりっと鎮まり返り、歩む人も抜き足で歩み、話す人も声を忍ばせて、細語(ささや)き合うほどとなった。其の細語(ささや)き合う事を、何事かと聞くと、何れも毒殺前、毒殺後の噂で、
甲「どうです、素性の知れない女房は持たれませんナ。到頭アノ新夫人と云われた美しい園枝夫人が、良人(おっと)を毒殺する事になりました。」
乙「エ、男爵をまで毒殺したのですか。」
甲「ナニサ、毒殺されたのは、男爵の老友小部石大佐ですけれど、其の毒は園枝夫人が男爵を殺し、此の家の財産を我が物にして、爾(そう)して情夫を引き込むと言う考えで、男爵の飲む硝盃(コップ)の底へ、毒を垂らして置いたのです。実に恐ろしいですよ。」
乙「爾(そう)でしょう。当り前の人間にしては、余り姿が美し過ぎました。アノ様な蟲も殺さない顔をして居る美人には、得てして心の恐ろしいのが有りますよ。併(しか)し夫(それ)にしても、一昨日の遊山の時まで、男爵に寵愛され、我々一同を待遇(もてなし)て居たアノ夫人が、遊山場から情夫と駆け落ちし、昨日又ノメノメと帰って来て、其の夜に良人の毒殺に掛かるなどとは、余り早過ぎるじゃ有りませんか。」
甲「イヤサ、其処が毒婦の毒婦たる腕前です。昨日男爵に向い、決して不義者では無いなど、喋々(ちょうちょう)《ぺちゃくちゃ》言い訳をした相です。所が幾等男爵でも、迷いの夢が覚めた後では、爾々(そうそう)は毒婦の毒舌に巻き込まれず、明らかに離縁を言い渡したものですから、何でも男爵が遺言状を書き直さない中に、男爵を殺さなければならないと思い、それで昨夜の中に男爵の硝盃(コップ)の中へ毒を入れて置いたのです。」
乙「それで新夫人はどうしました。」
甲「昨夜の中に立ち去って、姿を隠して仕舞いました。多分は情夫と共に祝杯でも挙げて居るのでしょう。全く憎いでは有りませんか。自分が毒殺の疑いを避けるために、其の立ち去る時、男爵へ一通の手紙を残し、其の中に唯だ男爵の心を和らげる様な事ばかり書いて、少しも恨みがましい文句を、入れて無かったと云う事です。」
乙「なるほど、若し恨みの文句が有っては、直ぐに毒殺の疑いが自分に掛りますから。」
甲「爾(そう)サ、夫(それ)に又手紙で男爵の心が、幾分か和らげば、今夜の中に遺言を書き換える様な事はないだろうと、即ち遺言の書き換えを妨げる予防策です。毒婦の心は鏡に掛けて見る如しです。」
乙「所が其の計略が外れて、男爵が昨夜の中に遺言書を書き換えただけでなく、其の毒を呑まなかったのは、毒婦に対しては気味の好い次第ですが、夫(それ)にしても、知らずにうかと、男爵の身代わりに立った小部石大佐は、実に気の毒ですなア。」
甲「爾(そう)ですとも、夫(それ)だから男爵はもう一家の名前や一身の名誉は厭(いと)うてはいられ無い。我が身の恥を打ち明けて裁判所へ訴えると云っています。」
乙「エ、裁判所へ。」
甲「ハイ、園枝夫人を毒殺者として裁判所へ引き出し、充分の罪に落とさなければ、死んだ大佐の霊に対して相済まないと云い、既に園枝の行方を探偵のため、夫(そ)の手続きまで運んで居ます。」
乙「成るほど、男爵が紳士ならば、恥を打ち明けて、我が妻を刑事の罪人に落さなければ、済みますまい。何しろ大変な事に成りました。併し夫人を罪に落とすだけの証拠は揃っていましょうか。」
甲「残らず揃って居るのです。既に毒の入って居る硝盃なども、大佐の呑み残しの毒と共に、医師立会いの上で封印しました。直ぐに分析する相です。実に意外な椿事です。」
と甲唱え乙伝え、広い常磐家の部屋部屋は、殆どこの様な噂だけで満ちていた。
憐れむべし、清き園枝は、全く毒殺者と見做(みな)されたのみならず、男爵の決心で、裁判所にまで引き出される事となり、厳しく行方を尋ねられる身とはなってしまった。
この様な状況に、最も恐れ戦(おのの)いて、人知れず心を苦しめるのは、彼の永谷礼吉である。彼は既に男爵の従者から、昨夜男爵が立会人まで定めて、遺言書を書き換へ、其の身を当家の相続人に定めたる事を知り、嬉しくて仕方がなかったが、昨夜皮林が、
「今夜の中にも男爵が死ねば」
などと語った事を思い出すと、男爵を毒殺しようと計った者は、どうやら園枝では無く、皮林の様に思われ、追々詮索の進むに連れ、我が身にまで罪が及んで来たりはしないかと、唯それのみが気に掛かるので、夜明けて後、又も後庭に出て、人目をを忍んで、思案しながら散歩すると、昨日旅商人が来て居た同じ裏木戸に、同じ皮林が、同じ旅商人となって来ているのを見た。
永谷は益々恐れを催したが、皮林の外に相談の相手が居ないので、そろそろとその傍に寄って行くと、旅商人は四辺(あたり)を見回し、是サ、永谷君、君の運の好いのには恐れ入ったよ。伯父男爵が、昨夜の中に頓死して、幾千万の財産が一夜で君の物となったのに、君は何をその様に鬱(ふさ)ぐのだ。」
永谷は寧ろ腹立たしい調子で、
「君は何を云う。伯父男爵は毒を呑まずに生きて居るが。」
皮「エ、男爵がまだ活(いき)て居る。」
と打ち叫び、皮林は殆ど自分の身を支える事が出来ない程に驚いた。
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