sutekobune79
捨小舟 (博文館文庫本より)(転載禁止)
メアリー・エリザベス・ブラッドン作 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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捨小舟 後編 涙香小史 訳
七十九
松「今考えれば、成程私より先を越す人が有る筈です。私は男爵が婚礼した時、初めて目を附け、其の皮林育堂と云う人は、夫(それ)より幾年の以前から目を附けて居たのです。併し私は夫等(それら)の事情を知らず、自分の外に何の敵もない事と思い詰、安心して緩々(ゆるゆる)探りを入れて見ると、何だか様子がが怪しいのです。
第一数年前に勘当せられた甥の永谷とか言う者が、急に勘当を許(ゆ)るされたばかりか、大分男爵に気に入られる様子などを、聞き込みましたから、早それを疑って、先ず永谷に目を付けると、永谷は悪人には相違ないが、自分で仕事をする程の悪人とも見えません。却って永谷の友達と称し、男爵家の客として逗留して居る、皮林育堂と云う人が、中々捷(はし)っこ相に見えるから、敵の張本は此の人だろうと、其の来歴を聞き糺(ただ)すと、彼が常磐家へ入り込んだのは、唯男爵夫婦が永谷と共に領地の景色を見に行った時、絶景の場所で絵を描いて居て、夫(それ)で男爵の気に入られたと言う事です。
私は是だけで、その皮林が大変な食わせ者だと見破りました。勿論、世の中には田舎の風景を写し廻る画工の雛子(ひよっこ)も有りますけれど、外科医が丁度永谷礼吉の友達で、宛(あたか)も男爵夫婦の出先で出会(でくわ)すなど、余り物事が旨(うま)過ぎるから、私は充分に疑いを固め、それからと云うものは、其の外科医者の一挙一動、残らず私の耳に入りましたが、入る度(たび)に私も感心し、之は中々一通りの敵ではないと思いましたから、直ぐにロンドンへ出張し、今言う通り、貴方の化学試験所まで突き止めて来たのです。
其の時の考えでは、貴方のもくろみは、多分園枝夫人を毒殺するのにあるのだろうと、私は斯(こ)う思いました。けれども園枝夫人の毒殺ならば、今と言って今直ぐにも出来る事。何も悠々と時日を過す筈もない。夫(それ)に貴方が急に夫人を毒殺する様子も無いから、さて変だと思っているうち、さしも親しかった夫人と男爵の間が、何と無く遠ざかって来るとの噂さ、此の噂を聞き、初めて貴方の企(たくら)みが私の思ったより、もっと深い事を知り、私は貴方の技量にも殆ど感服して仕舞いました。
爾(そう)して見ると、園枝夫人に不義の名を負わせ、男爵を怒らせて、怒りの余りに遺言を書き替えさせ、爾(そう)して置いて、男爵を毒殺し、常磐家の財産を丸々手に入れる積りで居るのか、若いのに似合わない大望を企(くわだ)てる医者殿だと、実に肝の潰れるほど驚きました。
併しナニ、其の様な大望が一年や二年で急に運ぶものではない。其の中己(おれ)が手を出し、大望を打ち破る時が来るワと、私は安心していましたところ、アノ遊山の日になって、又驚きました。聞けば男爵と夫人とが別々の馬車に乗ったと言う事。是は実に非常事態の現象だ。
もう男爵の心では、夫人を不義者と疑いかけて居る。皮林の企みが、早やここまで進んだか。是では一刻の油断も出来ないと、私は自分で密(ひそか)に貴方の行動を見張るため、遊山場まで出かけて行きました。貴方ならば別当に化けるとか、乞食に化けるとか、顔をしかるべく絵の具を塗り、姿を変える所でしたが、悲しい哉、私は不調法で、姿を変えることが出来ない。何の様な危ない場合へ臨むにも、持って生まれた此の不束(ふつつか)な顔を、露出(むきだ)しです。
その代り私には手下がある。多年法律を潜(くぐ)って飯を食うだけに、倫敦(ロンドン)に巴里にアメリカに、手紙一本で、どんな用でも代わりに行って呉れる、手下と言えば手下、相棒と云えば相棒、共に助け合う仲間が居る。
特に此の土地には、私が『田舎屋』を買受た事を知り、何か目的があるのだろうと嗅ぎ知った仲間の者が、二、三人来ていますから、私は夫(それ)らの者に言い含め、自分で遊山場の近辺まで出張し、余所ながら見張っていると、食事のまだ済まない頃に、男爵が急に遊山場を引き上げるなど、追々合点の行かない事が出て来るのです。
夫(それ)から暫くすると、手下の一人が注進《事件を急いで報告》して、貴方が隣村で一人の子供を雇い、沢山金を遣って、何かヤルボロー塔の事を細語(ささや)いて居たと申します。悉(くわし)くは分らないけれど、私は是を聞き、何でも今夜アノ古塔で、何かの活劇が有るだらうと、直ぐに古塔へ其の者を遣って置きました。所が果たせる哉、翌朝になり其の者から、恐ろしい報告が有りました。
私は益々事の切迫を知り、何とか表面の運動を始めなければならないと思ったが、真逆(まさか)に、未だ其の夜の中に、男爵が遺言を書き替えようとも思わず、又その夜の中に、貴方が男爵を毒殺しようとも思わず、夫(それ)に又、私の仕方は貴方の様に功を急がず、なるべく天然自然に好い機会の現れるのを待ち、機会が有れば取り掛かるし、機会がなければ未だ時節の来ないものと諦めて、気永く待ち、なる丈露見を避けることに在りますから、その夜も敢えて騒がず、何か好機会が現れさうなものと、唯心で待って居るばかりでした。
所がその夜も更けてから、貴方が旅商人に化けて私の家へ宿を借りに来ましたから、私はさては早や貴方が目的を達したか、何たる悪運の強い悪智慧に長(た)けた男だろうと、余りの事に呆れ返り、その夜は悔しいやら残念さに、私は少しも眠らずに明かしました。
夜の明けるまで段々と考えて見るに、貴方の目的が旨(うま)く達して居たならば、貴方の秘密を知って居る事を種に、後々貴方を強請(ゆす)り、貴方の奪(と)った常磐家の財産を、幾分か食い取ろうし、若し貴方の目的が旨く行かずにいれば、矢張り自分の運動を始めよう。どっちへ転んでも只は起きないと、斯(こ)う思案を定め、今朝は毎(いつ)もより早く店を開け、独り戸口に見張っていますと、常磐家の下僕が通りました。
其の者を呼び止めて聞くと、昨夜小部石大佐が男爵の硝盃(コップ)で水を呑み、毒に中(あた)って死人同様に成ったと言いますから、夫(それ)では天が未だ、貴方の様な悪人を勝たせないのかと、漸(ようや)く安心はしたけれども、夫でも下僕らの言う事は一々当てにも成りませんから、兎に角も、貴方の部屋に行き、貴方の胸へ一本釘だけ刺して置いたのです。
爾(そう)して置いて、追々に探って見ると、全く下僕の言った通りですから、最早貴方の企(たくらみ)は全く是で破れた。これからが私の運動する番、夫にしても貴方の様な者が、まだ戦場の近辺を徘徊しては、少しの油断もならないので、今夜の中に是非貴方と充分に話しをつけて置こうと思い、夫で此の家へ来たのです。何うです、是で私の苦心も大抵は分かりましたでしょう。」
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