巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune80

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2015.1.12

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         捨小舟  後編   涙香小史 訳

                 八十

  十口松三の一語一句、皮林育堂の身に取っては、一として驚きの種にならないものは無い。我より外に、誰一人知る者なしと思い込み、秘密に秘密を加えた我が企(たくら)みを、始めから終わり迄、残らず見張っていて、特に倫敦(ロンドン)の化学研究所まで調べた人があるとは、実に思いもよらなかった。

 然も此の人の身の上に就いては、我に於いて、毛頭《少しも》知る所なく、唯、『多年法律を潜(くぐ)って世を渡たって来た。』と云い、『三週間以前に「田舎屋」を買って、此の地に来た。』と云う丈は分ったが、其の外の事は更に分らない、天から降ったか、地から湧いたのか、其の素性、其の来歴、少しも知る方法が無い。

 我は彼の一点の弱味さえも握っていないのに、我が弱味は悉(ことごと)く彼に握られている。如何にして彼と戦うことが出来るだろう。
 流石の皮林育堂も、松三の話の終る頃は、唯ブルブルと身を震わすばかりであったが、漸く其の終わるのを待ち、

 「シタが貴方の目的は何処にあります。夫(それ)だけの事を私に話し聞かせて、私を如何するのです。」
 松三は又も煙草を燻(くゆ)らせながら、
 「イヤ、唯私の命令に従えば好いのです。この後にしても、貴方の一挙一動は総て私に分りますから、私の目を忍んで、未だ常磐家を付け狙うと云う様な了見を捨てて仕舞い、今までの深い企みは総て水の泡になったものと諦めなさい。

 此の土地に居た所で、貴方は此の上何の仕事をする事も出来ません。強いて仕事をしようと思えば、私が貴方の罪を発(あば)きます。夫(それ)だから音なしく倫敦(ロンドン)へ帰り、静かに私の指図をお待ちなさい。静かに倫敦で隠れて居て、再び常磐家へ近づきさえしなければ、私も無事に貴方を助けて置き、其の中に私の運動がよく運べば、又貴方を道具に使う場合も有りましょうから、其の時には私から第二の命令を発します。

 詰まる所は、全く私の道具になり、少しも私の言い付けに背かない様にしろと云う丈です。サア何うです、おとなしく私の道具になりますか。夫(それ)とも私の敵になり、今までの罪を発かれますか。二つに一つ、貴方の好きな方を選び、ご返事を願います。」

と非常に落ち着いて言い聞かせたが、皮林はどちらとも返事をすることが出来ない。此の人の道具ならば、生涯我が頭の挙がる時は無い。若し道具にならないと云えば、この様な非常な悪人なので、如何なる手段を以って、我を滅ぼそうとするか分らない、唯一思いに此の者を殺す外には、一も逃れることが出来る道はない。

 皮林は衣嚢(かくし)の中に、小刀を収めて来た事を思い出し、何とかして、少しの間此の者を油断させ、隙に乗じて、咄嗟の間に襲おうと、窃(ひそか)に度胸を定めて、其の言葉を曖昧にし、
 「貴方の道具になるとは、何の様な事をするのです。」

 松三は其の言葉に由り、早皮林が幾分か折れて来たと安心したのか、口の当りに勝ち誇る様な笑みを現し、
 「道具と云えば、無言(だま)って私に遣(つか)われる丈の事です。私の此の後の運動は、益々秘密を要しますから、自分の道具とも言うべき人に向い、一々説明(ときあか)す事は出来ません。

 私には数人の手下が有りますが、其の手下は皆私の目的を知らず、唯私の指図を待ち、指図通りに働いています。貴方も其の通り、此の後私から、何(ど)の様な指図を受けても、唯その指図の儘(まま)に運動すると言う覚悟で、静かに待っている丈の事です。」

 益々図に乗る様な言い分に、皮林は愈々此の者を、一刻も早く刺し殺さなければならないと思うが、松三は更に悠々と、
 「何(いず)れにしても、貴方はもう私を殺すより外に、助かる道は有りません。私を殺しますか、夫(それ)とも私の道具に成りますか。殺すなら今夜ですよ。今茲(ここ)ですよ。」

と非常に大胆な言葉を放ち、自ら皮林に背を向け、窓の方に立って行った。此の振る舞いに、皮林は気を奪われ、殆ど茫然として、自失する程だったが、真に彼を殺すのは今である。彼が我に背を向け、窓際に立つ今こそ、彼を背後から刺し殺す、唯一無二の機会なので、忽ち手に小刀を握って立つと、

 「今夜私を殺さなければ、此の後、決して私を殺す場合は有りません。オオ、是は不思議、斯(こ)うして硝子(ガラス)戸に向って居ると、丁度背後に目の有る様に、其処で貴方の立ち上がる姿が、好く硝子戸に写ります。」

 皮林はドキリとし、さては此の者に図られたか、何処まで悪事に長けているか知れない男よと、只管(ひたすら)に呆れながらも、
 「ドレ、葉巻きを一本頂きます。」
と言いながら手を延べ、宛(あたか)も煙草を取る為に、立ち上がったように紛らすと、松三は更に硝子戸を推し開き、窓の外に首を出し、下の方を眺め見て、

 「皮林さん、御覧なさい、此の壁には窓まで蔦葛(つたかずら)が這い上がって、丁度縄梯子の様になって居ます。今夜私が殺されたら、此の蔦葛から、外の曲者が這い上がったと思い、誰も貴方を疑いません。」

 皮林は今度こそと、再び小刀を握って立ち、忍び足で、二足三足松三の方にそっと近付いた。


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