sutekobune84
捨小舟 (博文館文庫本より)(転載禁止)
メアリー・エリザベス・ブラッドン作 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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捨小舟 後編 涙香小史 訳
八十四
警察と云う物は、最近二十年来に著しく進歩し、今の世に在っては、専ら一個人の権利と名誉と安寧(あんねい)《安泰》とを保護することのみに勉め、たとえ探偵吏であると言えども、出し抜けに名刺を出して、名誉ある家の主人に面会を求める様な無作法な事はなさず、職務の為、萬止むを得ない場合ならば、職務を隠して唯、
「差し迫った大切な用務で、面会を乞い度い。」
と申し込み、さて面会した上で、四辺(あたり)に他人の無いのを見済まして、初めて職名を名乗るとか言う。
しかしながら、三十年前の探偵は、それ程迄に人の身分と安寧を重んぜず、
「探偵」
と銘打った己が名刺は、誰の家にも無遠慮に入り込むことが出来る、切手と心得て居たのである。だから探偵何某が、出し抜けに職名を傘に着て、汀(みぎわ)夫人に面会を求めたのも、其の頃に在っては怪しむに足りないと云える。
此の時夫人は、宛(あたか)も教場の用事を終え、園枝の機嫌を見て、其の何故に良人(おっと)の家から出て来たのかを、徐(おもむ)ろに尋ねようと、今宛も園枝を呼び、我が居間に差し向かいになり、先ず序開きの雑話を試みて居る最中だったが、取次ぎ女の持って来た探偵の名刺を見て、最初は何かの間違いとばかり思い、
「多分門違いだろう、茲(ここ)は探偵などの入り込む家ではないとそう云ってお返しよ。」
と命じると、
女「イエ、もう私がそう申しましたけれども、先は門違いでない、是非とも汀夫人にお目に掛かり度いと云うのです。」
此の時園枝も傍らに在って、此の言葉を聞いたけれども、勿論我が身が探偵吏に尋ねらるだろうとは、少しも思わなかったので、余所事(よそごと)の様に聞き流していた。下女は更に夫人の耳に口を寄せ、
「夫(それ)に昨日から、此の家に怪しい男が見張って居る所などと思い合わせますと、何か警察で用事が有るのかも知れません。」
と細語(ささや)いた。
夫人は忽(たちま)ち顔色が青くなるほど怒りを催し、
「幾等警察でも、名誉ある此の家に目を付けるとは余り失礼だ。宜(よろ)しい、私がその人に逢い、矯(たし)なめて追い返して遣ります。」
と云い、其の儘(まま)立って、玄関の方に出ると、探偵は早や応接の間に入って、我が家の様に悠然と腰を下ろして控えて居た。
成程その筋の探偵らしく、垢摺れて光る様な黒羅紗(らしゃ)の服を着け、片手に一冊の手帳を持っている。夫人はこの姿を見るやいなや、
「オオ警察の犬とやら云う人はお前かエ。」
と一言に挫(ひし)ごうとすると、探偵は澄まし切って、
「唯今差し上げた名刺に或る通りです。貴女が汀夫人でしょうか。」
夫人は突っ立ったまま返事もせず、何と云って懲らしめて呉れようかと、暫(しば)し忙しく考えた末、
「此の家は犬などの入って来る所でないから、早く帰って長官に、生憎垣根が破れて居なくて、潜(もぐ)り込む事が出来ませんでしたとそうお言い。」
無礼な言葉を聞き捨てならないと、探偵は火の如く怒るかと思いの外、この様な扱いは到る所で受け、慣れて今は何とも思わないと見え、夫人の言葉も耳には入らない様に平気で聞き流し、
「イヤ夫人、貴女に唯伺う事が有って参ったのです。当家に園枝夫人と云う方が居ましょうか。」
汀夫人は此の語を聞き、名刺の表に刑事探偵と有ったのを打ち忘れ、さては常磐男爵が妻の行方を気遣って、探偵を頼み捜させているものとばかり思い込み、ガラリとその調子を変え、
「オオ貴方は常磐家から夫人を迎へに、イエ昨日からもう来るか、もうお出で有るかと心待ちにお待ち申し、余りお出でが遅いから変だと思い、今園枝夫人に、様子を尋ねようとして居た所です。誠に何(ど)うもご苦労様。」
探偵は以前の嘲(あざけ)りに動じなかった様に、此の愛想にも少しも動ぜず、殆ど機械的な声を発し、
「何うか其の園枝夫人を是へお寄越しを願います。」
汀夫人は良く聞かず、
「では直ぐに寄越します、迎えの馬車も来て居ましょうネ。」
探偵が、
「ハイ」
と厳かに答えたのは、果たして如何なる迎えの馬車だろう。
夫人は直ぐ元の部屋へ退き、非常に嬉しそうに園枝に向い、
「サア私も是で安心だ。到頭来ましたよ、常磐家から馬車を持って和女(そなた)を迎えに、イエ余り遅いから、私も心配して居たが、是で先ア波風も収まった。迎えの者が和女に逢い度いと云うから、先ア逢ってお遣り。きっと男爵からの詫び同様の言伝(ことづて)も有るだろう。」
園枝は合点が行かず、
「只今の探偵は何(ど)うしました。」
汀「其の探偵が男爵に頼まれ、和女(そなた)の居所を捜して居たのだよ。馬車を持って迎えに来たのだよ。」
園枝は落ち着いて、物に騒がない質(たち)なので、この様な際にも、真逆(まさか)に警察の刑事探偵吏が、常磐男爵の為に、妻の行方を捜すだろうとは思わず、又常磐男爵に於いても、探偵などに我が行方を尋ねさせるだろうとは思わず、是には仔細の有る事だろうと腹の中にて早くも思案し、
「其の探偵が私に逢い度いと云いましたか。」
汀「云ったドコロか待って居るよ。」
園枝は自ら刑事の被嫌疑者であるとは思わず、身に暗い所一は点も無いとは云え、此の頃、根も無い疑いばかり蒙(こうむ)って、家出する迄に立ち到った事を思い廻すと、更に又如何なる無根の疑いが、我が身に降り掛かかっているかも知れないと思い、
「分りました、夫人、暫(しばら)く茲(ここ)にお待ち下さい。私が唯独りで逢って見ましょう。」
と云い、非常に鷹揚に応接の間を指して行ったっが、これが更にこの上の、不幸の淵に沈む本になることだと、露ほども知らないことは、仕方のないことであった。
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