sutekobune98
捨小舟 (博文館文庫本より)(転載禁止)
メアリー・エリザベス・ブラッドン作 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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捨小舟 後編 涙香小史 訳
九十八
悪人の為す事は、常に他人の思い寄らない所にある。彼皮林は何の目的で小浪嬢を、男爵の二度目の妻に、出世させようとするのだろか。また如何なる工夫を以って、其の事を運ぼうとするのだろうか。是から彼がその工夫を語ろうとする折も折、庭の一方に同じく月に逍遥する人影が現れたので、両人は話を続けることが出来ない。特に皮林は木の陰、風の音にも気を配る様子で、
「イヤ、小浪嬢、この上の話は決して聞く人の居ない、極安心な場所でなければ出来ません。重ねてお目に掛かる事とし、今夜はお別れに致しましょう。」
と云い、其の儘(まま)彼方へと歩み去り、姿は掻き消す様に見えなくなった。嬢は子の様に話半ばにして彼に別れ、惜しむべきか喜ぶべきか、自から判断することが出来ない。
唯ホッと息を吐いて我が部屋へと帰ったが、この夜寝床に入った後も、皮林の云った言辞(ことばが)異様に耳の底に残り、忘れようとして忘れることが出来なかった。
翌朝は早く罷役(ヒヤク)少佐を、金策の為に仏国へ立たせたが、其の後で又皮林の云った事を思い出し、彼が、
「貴女を男爵の令夫人に出世させて」
と云った其の手段は、如何(どの)様なものだろう。彼は如何(どの)様にして我が身を、男爵の妻にする積りなのだろうなどと、我にも有らず思い廻し、はては給仕の者を呼んで、
「昨日か一昨日、この家に着したる若紳士で、顔は斯(こ)う斯う、年の頃は云々の旅人は、何れの部屋に居(お)られるのか。」
などと聞いたが、給仕はその様な旅人は、この家には来ていないと答え、全く知らないものの様であった。
嬢は狐にでも欺(つま)まれた心地がして、自ら怪しむばかりだったが、何様昨夜の問答が歴々と耳にあるので、多分は給仕が知らないだけでだろうから、その中に彼皮林が、再び此の身に面会を求めて来るだろうと思い直し、更に後の事まで取り越して、彼が若し再び来たならば、我が身は其の相談に応ず可きか否かなどを考え廻したが、如何なる相談にもせよ、縁も由縁(ゆか)りも無い人から、突然に持ち込まれて、固(もと)より応ず可きものでは無い。況(ま)して淑女の身として、我が良人(おっと)を定めると云う、極めて神聖な一大事に、他人の智慧を頼む様な浅墓な心を、見透かされて好いものだろうか。
本来から云えば、我が身が男爵の妻に成り度いと思う心の秘密を、人に察せられてすら、我が身は大いに恥、大いに怒る可きなのに、たとえ彼皮林に、兄少佐との相談を悉(ことごと)く立ち聞かれたにもせよ、此の次彼の来た時には、断然と拒絶しなければ、実に我が品格にも触ってしまうと、立派に思いを定めたけれど、心の底の何処かに、未だ皮林を頼みに思うところが無い訳ではなかった。
智慧の捷(はしこ)い彼の性質は、既によく知る所なので、彼には如何なる工夫があるのか、内々に聞いて見度いなどと、非常に密(ひそか)に非常に微(かす)かに思って止まなかった。
やがて中食(ちゅうじき)の刻限と為り、嬢は毎(いつ)もよりやや早めに食堂に入り、他人の散じる頃迄居残って、夫(それ)となく客の顔を検(あらた)めたが、皮林の顔は見えなかった。
全く給仕の云った様に、此の家には来て居なくて、外の宿に泊まったのだろうと、またも非常に密(ひそ)に非常に微(かす)かに失望しながら、我が部屋に帰って見ると、卓子(テーブル)の上に確かに、
「倉濱小浪嬢」
と宛た手紙があった。
嬢は何げなく封を切ると、中から現れたのは、五十ポンドと云う、近頃纏(まと)めて見た事のない大金である。
之に添う書付は、
「兄上少佐の帰るまで、心置無く御使い下されば、幸甚に御座候昨夜の友人I・K」
と記して有った。
是は皮林育堂が贈って来た事は云う迄も無い。再び上封を見直すと、差出所は判(わか)らないが、近辺から郵便に托したものである。これは親切か、これは侮辱か、抑々(そもそ)もこれは、相談を共にしようと云う身元金か、流石の嬢も、是には我が身が痛く零落(おちぶ)れたことを恥ぢ、独り両の頬を赤くしたけれど、カッと怒って、破り捨てる程の勇気もない。
とやかくと考えた末、
「アア手を附けずに仕舞って置いて、今度逢ったら罵(のの)しって返して遣ろう。」
と呟(つぶや)き、其の儘(まま)元の封じ袋に入れ、抽斗(ひきだし)へと納めたが、是こそこれ、嬢が皮林の手の中に滑り込む第一歩である。
是から三日と経たないうちに、嬢が恐れた宿泊料の催促は、書き出しと云う無粋な紙切れとなって、此の家の帳場から来た。嬢は兄の帰るまで、云い延ばす覚悟だったが、淑女の身として、僅(わず)かばかりの借金を言い訳する辛さと、耳を揃えて目の前に並べて出す心地好さとは比べ物に成らない。
その後皮林の音沙汰が無いので、兄の帰る頃迄は、再び尋ねて来る事もないだろう。夫(それ)まで我慢するのも縁の下の力持ちであると苦しくても道理を附けたが、五十ポンドの銀券をくずして使い易い小札と為したのが初めで、其の後は又一枚、又一枚と出し、此れから五,六日の間に、早や半分の上を使い減らしたが、悲しい事に、兄少佐からは何の便りもない。
其の間にも隣家である常磐男爵の宿へは、怠らず尋ねて行き、手ずから男爵に給仕する程の実意を尽くして、深く男爵の心に取り入りは入ったけれど、まだ男爵は気に掛かる事ばかり多い様子で、嬢に縁談を言い出す模様もない。
其の状態で十日二十日と空しく過ごしたが、更に兄少佐から好い便りが無かったら、如何の様にして気永く、男爵が突然に云い出すのを待つ事が出来るだろうかと、心細いことと云ったら限りなかった。何とか男爵に、早く縁談を持ち出させる工夫は無いかと、空しく思案を廻らすに附けても、益々思い出すのは、彼の皮林の言葉である。
「貴女を男爵の令夫人に」
と云った彼の工夫は如何のような事だろうと、今は彼を罵(のの)しろうと思った決心も消え、彼の相談を退けようと呟(つぶや)いた言葉も忘れ、淑女は変じて餓鬼の様な内心と為り、しきりに皮林の再び来るのを待ち、若しやと思って、或る夜又庭の彼方に歩んで行くと、前に現れたのと同じ所から、同じ皮林が現れ出て来た。
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