warawa12
妾(わらは)の罪
黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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妾(わらは)の罪 涙香小史 訳 トシ 口語訳
第十二
夜は森々と更け渡る。人は寝、草木は眠り、聞こえるのは唯落ち残る池水の樋の口を伝う声だけ。今は午前の四時頃だろうか。妾(わらは)は唯一通の書置きに、
「父上よ、妾は悪しき心があるのではない。唯誤ってしただけ。妾は再び帰っては来ない。妾の事は忘れてください。妾の罪を許してください。」
と認め、是をベッドのの上に残して窓を潜(くぐ)って庭に出て、庭から伝って裏門を潜り抜けた。
外はこれ隙間も無い晴れの世界。天一面に散る星も道を照らす頼りとはならず、今村上の死骸は水の面(たも)に何寸露(あらわ)れたことだろう。その亡霊、妾の後を追って来はしないか。こう思っては冷や水を浴びせられたほど身震いしたが、心弱くてはいけないところと、力ない足を踏みしめ踏みしめ漸くにして大道に辿り出ると、ここには二、三丁(220~330m)を隔てて所々に常夜灯がある。せめてもの道しるべである。
大道を通っては知る人に会う恐れがあるが、目に立たない黒い服を着て、顔は濃いベールに包んだので、間道に迷って捕らわれるより増しだと足に任せて歩み去った。目指して行く方の当てはないけれど、古池事件の噂さえ聞かない土地ならば好い。遠いほどなお安心だ。夜が漸く明け離れた頃、妾は以前から知っている停車場に着いた。
宛(あたか)も前の停車場から来た一番汽車が今将に出ようとするところだったので、早速切符口に行き、唯、
「最終の停車場まで。」
と言って切符を買った。
「最終はベルギーの国境ですよ。」
と念を押す切符売りは、妾が唯一人なのを見て怪しんだのだろう。
「ハイ、そのベルギーとやらの国境に行くのです。」
と答えて切符を受け取るより早く上等車室に飛び入ると、嬉しい事に妾一人であった。相乗りの客もない。妾はほっと安心して手提げのカバンを台に載せた。是が妾のありたけの財産である。
中にはシャツ上下、三組、指輪、ボタン、飾り物等高価な品七十個、買う時の代価に直せば八、九万円(現在の約5億から6億円)以上はあるだろう。このほかに5円の金貨300枚(現在の約一千万円)、手帳一冊、紙一折、状袋一ダースの他には何もない。
何の為に状袋まで入れたのか理解は出来ないが、これで妾の心が落ち着かない事を知るだろう。やがて汽車はのろのろと出ようとしたが、この時飛ぶように馳せて来て、妾の乗っている上等列車に身を躍らせて飛び入った紳士が居た。息さえもせわしいのは切符を買うのに漸く間に合った人に違いない。
読者よ、この人を誰だと思う。妾はベールの内から唯一目見て縮み上がった。アア、これ古山男爵であった。
「コレ、嬢、ベールをしていれば誰も知らないだろうと思ってその様に隅の方に顔を向けていても無駄な事だ。取って食うとは言わないから、サア、こっちに出るが好い。ナニ、もうてっきりこうだと思ったから切符売りに聞いたところ、三号の上等室に入ったと言うから遣って来たのだ。」
妾は弱みを見せてはいけないところと、わざと大胆に身を置き直し、
「オヤ、何がてっきりこうなんです。この次の停車場に降り、昼までには家に帰るのです。逃げも隠れもしませんよ。」
古山は怪しく落ち着き、
「ヘン、次の停車場の名前も知らない癖に。こっちはもう最終の停車場と言って切符を買った事まで突き止めて来たのだ。サ、驚くことは無い。何処へ行こうと勝手だけれど、行く前に一言聞きたいことがあるから来たのだ。コレ、嬢、次の停車場で降りるなどと偽りを言うようでは、一寸も猶予は出来ない。ここで直ぐに、先日の返事を聞こう。」
(妾)エッ、先日の返事とは何です。
(古)「何のこととて大概分かっているじゃないか。吾女(そなた)が病気になったアノ日のこと。村上へ送った手紙を以って、女房になるかならないかと手詰めの談判に及んだところ、三日の猶予をくれと言うからまげて猶予をしてやったが、その晩から大病で今まで返事を聞く折も無かった。
二、三日の約束が一月半にもなる今日だから、又三日とは言うまいが、イヤ、言ったところで承知は出来ない。サア、私を亭主にするかしないか唯一言の返事を聞こう。アノ時は吾女に村上という悪る虫が付いていたから、彼奴(きゃつ)に対する遠慮からも、私にウンとは言わなかったにしても、村上が行方の知れない人となって見れば、よもや否とは言わ無いだろうね。」
と言いながら、無作法にも早や妾のベールを掻き捨て、妾にキスを与えようとする。
読者よ、力づくでは逃れられない状況だ。妾は罪なこととは知りながらも欺いて切り抜ける他はないと顔に現れてくる怒りの色を押し鎮め、
「何ですね。この様な所で。」
(古)この様な所あろうが愛情に代わりは無い。
(妾)でもここでは返事は出来ませんよ。
(古)ここで出来ないと言ったら返事の出来る場所はあるものか。辺りに人が居るではなし。この通り高い声を出さなければ聞こえない代わりに、いくら高い声でも他人に聞こえる恐れは無い。
(妾)でも貴方のように恐ろしい剣幕では出掛かった愛情も引っ込んでしまいます。
古山は悪人に相違はないけれど妾を愛する心だけは誠と見え、出掛かった愛情と聞き、忽ち嬉しさに我慢がならない様子で妾の傍に腰を下ろし、言葉の調子さえ和らげて来て、
「ナニ、それでは私に愛情が出掛かった言ってくれるのか。」
(妾)イエサ、物の喩えがそうではありませんか。たとえ出掛かった愛情でも先の出次第で消えてしまう事もあるものです。
(古)では詰まり私の出方一つで随分私を愛する事にもなるね。
妾は、
「まあ、そう言った様なものです。」
と言おうとしたが、この時たちまち村上の事が心に上った。妾が生涯他人を愛さないと村上に誓った口を以って、偽りにもせよ仇し男と愛情を語って好いものだろうか。村上の怨霊がもしここにあったら他人に愛情を移すために吾を泥の底に沈めたのかと妾を呪うは確実である。愛情のほのめく言葉を二度と口に出してはならないとこう思ったので、急に恐ろしさが迫って来て、自ずから顔色が青くなったのを感じた。
「でも貴方、私が村上を愛して居る事を知りながら如何してその様なことを仰います。未だ村上の行方も分からず、愈々死んだとでも聞けばまだしも、それが分かるまでは何とも返事が出来ません。
古山は忽ち顔に一種の笑みを浮かべてきて、
「嬢、他人ならそのもっともらしい言い訳を聞き感心もするだろうが、何から何まで知っているこの古山にその様な空々しい嘘を吐いても無駄なことです。知っているぞ、何から何まで。」
妾は異様な言葉を薄気味悪く思い、
「ヘイ、知っているとは何をご存知ですか。」
古山は又も落ち着き、
「村上を池の中に突き落としたことなどをサ」
アア読者、アア、妾(わらは)は既に命をまでこの古山に握られているのか。
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