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妾(わらは)の罪

黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2012.12.29

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  妾(わらは)の罪    涙香小史 訳   トシ 口語訳

                 第十八

 村上達雄の写真が如何してこの家にあるのだろう。妾(わらわ)は何度も見返したが、見れば見るほど恐ろしい。心のせいとは言いながら眺めるに従ってその顔が次第に大きくなり、果は写真とも思われず、全く生きた村上が妾の前に立っている様だった。妾は顔を背(そむ)けようとしたが背ける事は出来なかった。目を閉じようとしたが閉じられない。アア写真か、村上か、妾は心が段々狂って来た。

 何となく写真の村上が我が前にいる様な思いがして、我を忘れて、
 「オオ、村上か、恋しかった。」
と言うと、我が声が我が耳に入ってフト気が付く。気が付けば村上ではなく写真だった。又見ていると、写真が次第に大きくなり、生きている村上と異ならない。何度か、
 「オオ、村上」
と叫んでは自ら我が声に驚かされ、漸く正気に返るばかり。

 唯一枚の写真ではあるがこうまで不思議な思いがするのは村上の心の迷いであろうか。はたまた村上の怨霊がこの写真に乗り移って妾にその姿を見せているのだろうか。世に言う神経の怪談とはこの様なことを言うのに違いない。妾は冷や汗にびっしょり濡れ、もう二目とは眺める事は出来ないとアルバムを閉じて元の台へと載せたが、村上の姿はまだ妾の目の中に残っている。目を閉じてもその姿が見える。

 アア、恐ろしい、最早この家には一刻も留まって居る事は出来ない。早く逃げよう。早く外国に身を隠そう。旅券の表に深谷賢之助の妻お華と記され、彼古山男爵の妻と見られるのは辛い事この上ないが、それをかれこれと言ってはいられない。今にも古山が帰って来たら、夜のうちにも出立しよう。出立して世界の果まで逃げて行こう。

 読者よ、妾がこの様に心を決したところに古山男爵は帰って来た。見ると顔さえ唯ならない様子に妾は怪しんで
 「何か心配になることがありますか。」
と聞くと、古山はただ首を振るばかり。しばらくして、
 「どうだ、先ほどの旅券では如何しても駄目か。承知出来ないか。」
と聞く。

 (妾)「ハイ、考えてみると、どうも致し方が有りません。アレで我慢して逃げましょう。」
と妾は答えながらも、フト見ると、古山の上着のポケットから少しばかり白く突き出しているのは疑いもなく新聞であった。
 「オヤ、貴方は又新聞をを買いましたか。ドレ、お見せなさい。」
 (古)イヤ、もう新聞は見ないと約束はしたけれど、余り見ないと気になるから今停車場へ行ってパリから着いた今朝の新聞を一枚買って見たが、間が一枚抜けたので詳しくは分からないよ。昨夜配達の分が無いかと尋ねたけれど、売り尽くして一枚も無い。

 (妾)それでも好いからお見せなさい。
と妾が差し出す手先を古山は払い除けて、早や新聞を破ろうとする。アア古山が妾に見せまいとするするからには、大変な事が記されているに違いない。妾は無理に引き取って読み下した。雑報の第一に又も太い活字で、
 「古池事件」と見出しがある。その下には世の人々を戦慄させた古池の事件は愈々犯罪と見極めが付いた。今は争はれない証拠がある。突き落としたのは、華藻嬢である。証拠の品は探偵長の手で管理されている。その父古池侯爵も初めは嬢ではないと言い張ったが、証拠品を一目見て気絶したということだ。

 嬢の行方もほぼ分かった。一番汽車でベルギーへ逃げて行ったということだ。もっともベルギーとは既に犯罪人引渡し条約を結んであるので、この殺人嬢が捕らわれて来るのは近々のうちになるだろう。ベルギーまでの各駅には悉く殺人嬢の人相を回してある。警察の奔走は実に非常なもので、嬢を追って行った古山男爵からはいまだ何の便りも得ていない。

 警察の鑑定では男爵は必ず嬢に会ったに違いない。会ったには違いないが許婚の情にほだされ嬢を連れて帰るのに忍びなく、共に何処かに隠れたのではないかと思われるとある。
 読者よ、妾は読み掛けて何度か気絶しそうになったが、余りの恐ろしさに気絶も出来ず総身ただ石のように固まった気がするだけ。
 アア読者よ、妾は新聞にまで殺人嬢と書き立てられている。

 この華藻の名前は人殺しの文字と同じ事と見られることに至った。最早や華藻の名を捨てなければならない。あくまで深谷賢之助の妻お華と名乗らなければならない。アア千年万年の後までも誰一人知る者も無いだろうと安心していた妾の罪、今は世界中知らない者は無い事となった。

 それにしても警察の手に入ったという証拠の品とは何だろう。父がこれを見て気絶したと言うからには、きっと一目で明白な品に違いない。又思えばこの罪とは洲崎嬢を殺した罪か、村上を殺した罪か。それとも村上と洲崎嬢を殺した罪か。妾は読者の知る様に、村上を殺しはしていない。ましてや洲崎嬢の事柄は昨日初めて知った程である。

 古山の言う様に果たして妾が夢中になって嬢を池の底に落としたのか合点が行かない事ばかりだが、恐ろしさは同じ事だ。妾はここに至ってほとんど魂さえ身に添っていない。
 「古山さん、直ぐにここを立ちましょう。もう一刻も居られません。」
 (古)そうはいかない。明朝でなければ汽車がないから。
 (妾)汽車がなくても構いません。馬車を雇って行きましょう。
 (古)ナニ、その様に心配する事はないよ。皆ベルギーに逃げたと思っているからこの辺りは大丈夫だ。それに内々様子を探ってみると、この辺は都から三百マイル(556km)ほど離れているから汽車では十時間で来るけれど、誰も都の事に気を留めてはいない。

 唯都の新聞を取る人がこの事件を読むだけの事で、その他は古池事件と言っても何の事か分からない程だ。警察へもまだ手は回っていないから、そう急ぐ必要は無い。今夜はゆっくりと寝て、明日の朝出発すれば丁度好いだろう。
 妾はこう聞いても更に安心は出来ないが仕方が無くその意に従ったが、やがて夜になったので、明朝早く起き出そうと、宵のうちから寝床に就いた。

 読者よ、かの古山男爵は最早や気長に妾をなづけて、妾に十分愛情を起こさせた上で初めて妻にしようと決心したのか、この宿に来てからは更にいやらしい様子も無く、宛(あたか)も兄弟のようである。 今宵もベッドを並べて寝たけれど、早やいびきのみ高く聞こえる。妾は心に思いがあるので臥(ふ)したが中々寝られず、我が身の上のはかない事ばかりを嘆きながら、或いは涙を呑んで泣き、或いは拳(こぶし)をが砕けるほど手を握り締めて嘆き、父には不幸を詫び、神には救いを祈るなど身も世も無い悲しみに沈んでいたが、二時過ぎる頃であったか、悲しみにくたびれてトロトロとまどろみながら夢に入った。

 アア、夢は恐ろしい夢ばかりだ。泥に塗(まみ)れた村上の姿は妾の夢を襲って止まず。襲われ襲われて忽ちに目を覚ますと、下等の宿屋のことで枕元に灯っているのは蝋燭ではなくて石油のランプである。部屋中に石油の臭いが満ち満ちてほとんど吐き気を催して来た。 このランプを消そうと思い首を上げてみると、アナ恐ろしい、壁一面に写った人影は又もこれ泥まみれの村上の姿だった。

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