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妾(わらは)の罪

黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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  妾(わらは)の罪    涙香小史 訳   トシ 口語訳

                 第二十三

 サア、ありもしな影法師が目に見える程、心に迷いがあるのならば貴女の身の上を探偵させましょうか。貴女には全く迷いがありますか。」
 アア、読者よ。この一語を聞いた時の妾(わらわ)の当惑を察せよ。心に迷いはありながらも、迷いの種を探られてはどの様な事になるか知れない。妾は血を吐くような思いで、
 「イイエ、別に迷いはありませんが。」
 (判)迷いが無いなら影法師などと仰(おっしゃ)っても裁判所では通りません。何かランプに手を掛けるだけの訳があったのでしょう。

 (妾)ハイ、その訳は
 (判)その訳は
 (妾)ハイ
とまでは口に出たけれど、その後を何と続けよう。妾は唯黙然として首を垂れるだけ。
 判事は気長に妾の返事を待つ様子だが、何時まで待っても返事が無いので、待ちかねてか、押し返し、
 「その訳を仰らないのはご自分の身に疑いを招くのと同じ事です。裁判所には無言は罪の白状であると言うことがありますから、どれほど潔白な身の方でも、返事をしなければ、罪のある者と見なされます。貴女が黙っていらっしゃれば、何か悪い目的があって、ランプに手を掛けたものか、さもなければ貴女の身の上に、影法師を見るほどの迷いの種があると見なします。こう見なされては益々貴女の為にはなりません。それほど神経が狂うとはこれより前に、非常に恐ろしい悪事が有るだろうと言われても致し方がないでしょう。」

 もしやこの判事が妾の身の上を知っているのではないか。知っていて妾を試しているのではないか。これより前に非常に恐ろしい悪事が有るだろうとは実に鏡を以って妾の今までを見破ったのかと怪しまれる。こう思うと妾は垂れていた首が益々低くなるのを感じるばかり。

 (判)サア、如何です。全く迷いがあるために影法師が出たものと見なし、その迷いの元を探らせましょうか。それとも悪い目的があってランプに手を掛けたものと見なしましょうか。
 妾は漸く、
 「お探らせなさるような迷いの種はありません。」
と言い切りながら、重い首を持ち上げ、恐る恐る判事の顔を見ると、妾を哀れむ色が十分に現れているが、妾の身の上を知っているものとも思われない。又、初め村上に似ていると思ったのも全く妾の迷いだったのか、それほどまで似たところも無い。

 (判)探らせても迷いの種が無いとならば、影法師を見たのでは有りませんね。
 妾は止むを得ず、
 「ハイ」
と答えた。
 (判)それでは何故ランプへ手を掛けたのです。
 何度回るも同じ問いだ。妾は答えるべき言葉もない。
 これほど老練な判事に向かい、なまじ偽りを言っても末の末まで問い詰められ、その偽りが現れるのは確実だ。

 だからと言って真実の影法師を言い張るのは益々危うい。アア、どちらにするにも逃れられない身だ。一層の事、古山を殺すつもりでランプを取り、熱くもないのに投げ掛けたと言い立てようか。こう言えば人殺しの罪に落とされ絞首台とやらに載せられること疑いないけれど、身の上を探られて、古池華藻嬢と知れた上、この辱めを受けるより心安い。たとえ偽りを作って、この問いだけ巧みに言い抜け、一時を逃れることができても、判事は未だ様々な事を問い、ついには今の身の上まで言い立てなければならない事にもなるだろう。

 罪に服すのは実の中であると妾はほとんど思案に余り、今にも死を決しようかとする折りしも、判事は又も押し返して、
 「返事が無いのは白状にも同じ事です。全く悪しき心があってランプに手を掛けた訳ですか。こう見なされても構いませんか。」
 妾は思い定めた声で、
 「ハイ」
と答えた。流石に判事もこの答えには驚いた。何と仰る。貴女は悪しき心があってランプに手を掛けたと仰るのですか。

 (妾)ハイ
と答えるには答えたけれど、ここに至って腸を絶つ思いがあった。汚れない家に生まれ、汚れない身をもって知らぬ他国に人殺しの疑い受け、言い開くことさえ出来ずに空しく罪に服すかと思うと、迫り来る涙が喉を塞ぎ、声に咽んで震えなくばかり。

 「判官閣下、残念でございます。」
というのさえも千切れちぎれ、その後は言葉もなし。判事も哀れみに耐えられないのか、しわがれた声を出し、
 「では深谷賢之助を焼き殺したと白状しますか。」
と念を押す。
 (妾)ハイ、白状・・・致します。
 判事は妾の心が一方ならず騒ぐのを見て取り、その鎮まるまで待つことにしようと思った様に、更に言葉を和らげて、

 「いや、こうしてお尋ね申すのも、全く罪の無い人を罪に落としたくないからです。今迄仰った事は書留も何もしませんから、何時でも取り消す事が出来ます。今日はこれだけにしておきますから明日までに篤と考えて、その上で十分にお答えなさい。短気な返事をなさっては取り返しの付かないことになりますから。」
と十分な親切を言葉に込め、明日は今の白状を取り消すべし。
といわず語らず諭してくれた。

 妾は心の中にその親切を感じ、涙ながらに座を立って引き下がると、外には早や以前の巡査が待ち構えていて、妾を連れて廊下を伝って二階を降りた。これから又も警察署の一室へ引き返されるに違いないと思ううち、アア、読者よ。今度は警察署の一室ではない。未決監十号と記した牢の中に連れて行かれた。

 アア、牢の中。妾はついに牢に入った。一旦は罪に服して死のうとまで決心した身も、牢と知っては身震いする。巡査は妾の驚くのにも頓着せず、唯一人妾を残して入り口の戸を堅く閉ざして、振り向きもせずに立ち去った。その後に妾はしばらくの間泣き伏していたが、これでは終わらないと身を起こし、部屋中を見回して見ると、牢の中は聞いていたより恐ろしい。

 唯椅子一つ、ベッド一つあるだけ。鏡もなし、テーブルもなし。一方の太い格子に鎖を付け、その先に古い椀をつなぎ格子の外に水を置いてある。椀で掬い飲む事を許したものとは思えるが、今迄誰が口をつけたのか分からない。この様な汚い椀を如何して我が唇に当てられようか。妾は見ただけで吐き気を催した。しかしこの様な事に心を留めるべき時ではない。

 判事の言葉では明日までに考えておけ言った。そうすれば明日又調べられる事になるだろう。今日言った事は何時でも取り消して好いからと言って、それとはなく明日厳重に取り調べる心を示したのだ。是非ともそれまでに返事の工夫を決めておかなければならない。妾はベッドの傍に進み寄り、これに身をもたせかけて止め処もなく考え始めた。

 読者よ。この時の妾の身ほど世に悲しいものはなかった。

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