warawa34
妾(わらは)の罪
黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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妾(わらは)の罪 涙香小史 訳 トシ 口語訳
第三十四
探偵長は妾(わらわ)を椅子に就かせて貴方が古池華藻嬢ですか。
(妾)ハイ、
(探)私はパリの探偵長です。
と言いながら手紙のようなものを取り出し、妾の前に広げた。妾は何事かと、これを見ると、逮捕状というものであろう。妾の名前から年齢を記し、人殺しの嫌疑とあった。妾は人殺しの二文字見たのみでその後は読む気もしなかった。
「ハイ、もう承知しております。」
(探)「ご承知とならば直ぐに出発しましょうが、貴方は私と一緒に汽車に乗るのは差し支えありませんか。」
と意外にも柔らかに聞いて来た。妾は許(もと)より探偵などと共に汽車に乗るのは好まないが、この探偵は年既に七十近くに見える上、特に紳士の身なりなので相乗りしても恥ずかしいところはない。
「ハイ、差し支えはありません。」
と答えると、探偵はツと立って一方の隅にに行き、その所に置いてあったカバンの様なものを開きながら、その中から一重(かさね)の衣類を持って来たので、妾は何事かと怪しみながら見ていると、その衣類を妾の前に置き、
「これは貴方の父上から頼まれて参りました。本当はこのようなことは出来ないのですが、侯爵とはかねがね親しくしておりますので、その心の内を察し、特別に私が持って参りました。」
妾は納得がいかず、
「エ、父がこの着物をどうしたと言うのです。」
(探)イヤ、旅のこととて、貴方がもし見苦しい姿をしてパリに連れて来られてはかわいそうだから、この着物に着替えて来るようにとのお言付けでありました。
妾はこう聞いて父の情けに感じ、思わずも泣いてしまった。
「アア、この不孝な華藻を父はこれほどまで心に留めて下さるのか。嫌疑に捕らわれる際まで見苦しい姿をさせまいと、新しい着物を送ってくる。父でなくて、誰がこの様に妾をいたわってくれるだろうか。世間の人は殺人嬢とと言って妾の名前を呼ぶ者もない中で、唯父一人が妾のためを思うとは、初めて知る深い恩愛、急に我が不孝の罪が重くなった心地がして、妾は暫(しば)し顔を上げる事が出来ずにいたが、
「サア、早くなさらなければ、汽車の時刻に遅れます。」
と急き立てる探偵の言葉に気を取り直し、
「有難うございます。それでは父の心に従い、この着物に着替えますから、どうかその間次の間にと言うと、探偵長は心得て立ち去った。妾はその跡で父が送ってくれた着物を開くと、黒無地の長衣で、旅行の為に新たに注文したものと見え、すその飾りなど短めに切り上げてあるが、縫い方まで十分に手を尽くしてある品で、これならば誰に見られても恥ずかしくない。妾は隅の方に持って行って、今迄の服を脱ぎ、この新しい着物と着替えると、父の情けに身は軽かったが、我が罪は肩に重い。
着替え終わって、姿かたちは如何だろうと振り向き、目先にちらりと止まったのは、床に落ちた一通の手紙である。さては着物の中に畳んであったったかとと急いで取り上げて読み下すと、全く父の自筆であった。
「華藻よ、ここまでの毒婦にとはお前を育てはしなかったが、どうして恐ろしい心となってしまったのだ。父はもう何も言わない。この上の恥を晒さないようにしなさい。」
と唯これだけの短い文句に妾は長い腸がちぎれる思いがした。
「ここまでの毒婦にとお前を育てはしなかったのに、」
これで見ると父上まで妾に罪があると思うなさっているのか。父はもう何も言わない。何故言い尽くし、責めるだけ攻めてはくれない。言うのも無駄だと見捨てなさったのか。この上の恥を、アア、妾が死のうと覚悟を定めた時、熱病に罹らなければ、この上の恥は晒さなかったものを。病のため助かったことこそ悔しい。
古池華藻が逃げた先で又も男を殺し、逃げ果せずしておめおめと捕らえ連れ帰されると言えば、この上晒す恥を、父は何と言い給うか。妾は短い文句を繰り返し読み返し、一人我が身を責めていたが、この時外から軽く戸をたたく音が聞こえるのは、以前の探偵長が支度は如何かと催促すにものである。早速に泣き顔を隠し、
「ハイ、もうようございます。」
と内より戸を開くと、彼の探偵は、
「ことによると汽車に間に合わないかも知れません。」
と言いながら入って来て、脱ぎ捨てた着物を取り上げ、悉(ことごと)くカバンに納め、
「サア、参りましょう。」
と妾の手を引き、急ぎ足で裁判所を出発したが、門前には兼ねて言いつけておいたと見え、二人乗りの箱馬車があった。これに乗って一直線に停車場にはせつけたが、少しの遅配で早や汽車が出た後だった。探偵長は、
「アア、残念な事をした。」
と言いながら、壁に掛けた時間表の傍に行き、しばらく眺めて、又妾の傍に来た。
「今日はこれきりで、パリに行く汽車はありません。仕方がないから、明朝の一番汽車に致しましょう。」
(妾)では又牢屋に帰るのですか。
(探)ナニ、牢屋へは帰りません。当地の宿屋に泊まるのです。
と言って再び妾を馬車に乗せ、元来た方へ引き返したが、やがてとある家の前に到り、
「サア、この宿で泊ります。」
と言うので、妾は何気なく降りたが、ここは如何だろう、妾が先に古山と共に泊まり、古山を焼き殺した安宿であった。妾は地に足を釘付けにされように立ちすくんで一歩も進まず、
「オヤ、この宿に」
(探)ハイ、この宿に
(妾)今少し上等な所がよろしいのではないでしょうか。
(探)でも、貴方はこの宿にお泊りなさったと言う事ではありませんか。
妾は又驚いたが、思い切って、
「ハイ、それだからなお嫌です。」
探偵は妾の顔をキッと眺め
「貴方はそれ程心が咎めますか。」
(妾)ハイ、咎めずに、ここは古山の死んだ家です。どうして咎めずにいられましょうか。何と仰ってもこの宿に泊る事は出来ません。
探偵長は勧めるだけ無駄と見てとったか、
「それでは致し方ありません。他の宿に致しましょう。」
こう言って又馬車を走らせ、これより幾町《何百メートル》か離れたやや上等の宿屋に入った。
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