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妾(わらは)の罪

黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2013.1.30

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  妾(わらは)の罪    涙香小史 訳   トシ 口語訳

                 第五十

 書記は検察官の言葉が終わると共に立ち上がって、彼の恐ろしい手紙を読み始めた。読者は既に彼の手紙の文句を知っている。村上自ら妾に突き落とされたものと思い、恨みの数々を書き連ねたものなので、一句一句皆妾の罪を暴くのに似ている。弁護人大鳥さえも既に予審廷に於いてこの手紙を見ているものの、なお顔の色を変えて身を震わしているのではないかと思われる。この様な有様なので傍聴人の感動も並大抵でなく、非常に静かになった上に、更に静かになり、唯物凄い書記の声だけが朗々と響き渡った。

 五千人の人々は残らず息を凝らして手に汗を握っているに違いない。妾は顔を上げようとしたが、宛(あたか)も首を押えられるように次第次第に低くなり、ほとんど地に着くかと思われるほどだ。アア、妾の為には生涯に唯一人、我が愛情を許した村上なのに、何ゆえにこの様な恐ろしい手紙を書いたのだ。弁護人の大鳥も何ゆえこの手紙を読み上げさせないように、前もって手立てを尽くさなかったのだろう。

 妾は聞くに従って我が身がとても助からないと思い出し、今は早や死刑の宣告を受けたような心地がする。読むこと凡そ一時間ばかりにして、書記は読み終わり、機械のように椅子に座った。これに於いて検事は立ち上がり、

 「この手紙だけで十分です。村上を連れて来て問い糺(ただ)すには及びません。この手紙の文を見て、誰が恐れない者があるでしょうか。被告は何と申します。村上が自分で足を踏み外したと言いましょう。村上の手紙に何とあります。嬢よ、貴方は何気なく私を突いたのではない。手先に十分な力を込めて突いたのだとあるでしょう。

 私は余り貴方の手先の強いのに思わずも後ろに四足ばかりよろめいて、踏み外したのだとあるでしょう。他人に向かってどの様に偽る事ができても、現在突き落とされた私に向かっては偽りを言うことは出来ない。貴方は一度私を殺した者ですとあるでしょう。この様な明白な証拠があるのにもかかわらず、被告はどの口をもって村上が自ら落ちたなどと言いますか。

 たとえ法律を潜(くぐ)る事が出来ても、この証拠を打ち消すことは出来ないでしょう。被告の言い立ては大抵この様な手際です。裁判官に置きましても被告のか弱い姿を憐れむが為に判断を迷わすことなく十分に厳重なるご注意を願います。」
と言い終わって席に戻った。

 弁護人大鳥はこれを聞き捨てがたいと思ったのか、又立ち上がって、
 「検察官の論弁は益々納得が出来ません。当被告は村上を突き落としたという嫌疑では有りません。洲崎嬢に対する嫌疑です。その手紙は村上に対してはいくらかの証拠にはなるでしょうが、洲崎嬢の嫌疑に対しては何の重さも有りません。検察官に於いてもしそこまでその手紙を珍重し給うならば、何ゆえ別に村上に対する謀殺未遂の公訴起こさないのですか。それほどその手紙が確かならば当被告は第一に村上を突き落とした罪に問われなければなりません。

 しかるに(それなのに)村上に対する点を訴えず、予審限りで消えたものとするのは、検察官自ら既にその手紙を無効と見なしている証拠ではありませんか。その手紙に記すところは皆間違っていると認めなさったでは有りませんか。被告はその手紙を恐れません。恐れなければこそ、尋常にその手紙を探偵に渡しました。もしその手紙を恐れたなら、被告はとっくに焼き捨てるはずであります。焼き捨てずに置いたのは、その手紙の間違いという事を知っているためであります。被告はむしろ検察官がその手紙を証拠にして別に村上に対する謀殺未遂の訴えを起こされることを望みます。

 検察官がその訴えを起こしたなら被告は十分に言い開く事が出来ます。今ここにその訴えが無いのに自ら進んで言い開きをするのは全く枝葉に渡りますので、言い開きは致しません。唯検察官が村上に対する罪を取り上げずに、今となってその手紙を持ち出した事を怪しみます。察するにこれは洲崎嬢に対する被告の言い開きが余り立派に過ぎたから、検察官に於いては正面からそれを打ち消す手段が無く、止むを得ず、枝葉のの事を持ち出したのだと思われます。」

と稀世雄弁を揮って席に着くと、検察官も続いて立ち上がり、誠に意外な弁護説を聞きました。本官が村上に対する謀殺未遂の訴えを起こさないのは既に説明した通り、まだ村上の行方が分からないことによります。この手紙を危ぶむためではありません。今にも村上が現れれば、別に又その訴えを起こさないものでもありません。それに又被告の洲崎嬢に対する言い開きにまだ弁論を加えないのは、決して弁論する箇条がないのではなく、これにはまだ裁判長閣下に於いてお問いなさるところがあることと信じますので、裁判長閣下のお問いが済んだ後で改めて言う事と致しましょう。」

 読者よ、検察官と弁護人の争いは、いずれが是、いずれが非か妾自ら判断する事は出来ない。妾は唯弁護人の言葉を聞く時は、我が身が必ず助かるに違いないと思い、又検察官の議論を聞く時は到底助からないと思うのみ。助かるか助からないか、判事の明断を待つほかは無い。両人の議論が止むのを見て判事は静かに 妾に向かい、

 「成るほど、その方の言い立ての通り、洲崎嬢がその方を突き倒し、その力が余ってそれで自分が倒れたものとすれば、その方には罪も何もないはずじゃが、それをその方が予審廷でも言い立てず、今迄堅く隠していたのはどういう訳じゃ。」
 この返事こそは大鳥が前々から頭を悩ませて工夫して、繰り返し妾 に教えてくれたところなので、妾 は十分に大事をとり、
 「私も自分で合点が行かない程の次第ですが、予審廷で調べられた時は、全く忘れて居りました。」

 (判)忘れたとは何を忘れたのじゃ。
 (妾)ハイ、洲崎嬢を如何したのかそれを全く忘れておりました。どう考えても思い出すことが出来ませんでしたので、それで唯知らない知らないと答えました。ところが予審が済んでから、気長に大鳥に問い詰められて、こうではないか、アアではないかと言われるうちに何時ともなしに思い出しました。私は初め村上が落ちた時、余りに驚いて度を失ったと見え、その後のことは残らず忘れていたのです。それが漸くこの頃になって思い出したのは一つは病気が全快したため、又一つには大鳥法学士の力だと実は有り難く思っています。

 こういえば判事も必ず信じるに違いないと大鳥は言ったが、判事は果たして信じるや否や、一同何となく信じざる面持ちである。

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