warawa52
妾(わらは)の罪
黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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妾(わらは)の罪 涙香小史 訳 トシ 口語訳
第五十二
「胴忘れとは如何いうものじゃ。」
随分不思議な問い方である。医師はこれに答えて、
「通例、神経病では一切の事を残らず忘れてしまいますが、全快に従って追々思い出します。その中にどうしても思い出す事が出来ない事柄があります。これが即ち胴忘れです。詰まるところ全快した時に人に問われても一向に覚えが無く、一向に思い出す事が出来ないのを胴忘れと申します。」
(判)そうすると被告がこの頃まで忘れていて、予審で何度問われても思い出すことの出来なかったこれらは胴忘れと言うべきものか。
(医)ハイ、全く胴忘れです。純然たる胴忘れです。
(判)それで全く胴忘れであるならば、再びそのことのあった場所に臨むか、または同じ病気に罹るか、この二つの場合以外には思い出すことが出来ないと言うのじゃな。
(医)左様でございます。
読者よ、今言い立てた医者の言葉を考えてみよ。妾(わらわ)の言い立てを全く打ち消すに足るものである。妾は一度胴忘れをした事柄をば、フトしたことから思い出したと言い、医師はフトしたことのために思い出す道理は決して無いと言う。妾の運は全くこの言葉にて尽き果ててしまった。しかし、弁護人はその尽き果てた妾の運をまだ世に開こうとするように、つと立ち上がって判事に向かい、
「唯今の医者の言葉は被告に不利益を与えるように聞き取った方もあるでしょうが、ここに一言弁じて置きたいのは、証人と鑑定人の区別です。証人とは実地に目撃した人の事で、即ち事実をありのままに申し立てる者であります。鑑定人は自分の見ないことをこうであろうと推量して申し立てる者であります。今医師の言葉は証人の言い立てですか、鑑定人の言い立てですか。勿論鑑定人の言い立てです。彼は実際に被告が思い出した事を目撃したのではありません。唯思い出すことは出来ないと推量しただけのことです。彼が何と推量しても推量をもって事実に曲げることは出来ません。推量と事実と食い違った場合には推量のほうを間違いと言わなければなりません。
事実は飽くまでも事実であります。今被告が胴忘れした事柄を弁護人の問いにより思い出したと言いますのは全くの事実であります。この事実が不幸にも医師の推量と違っているために偽りと見なされます。これが偽りと見なされては罪無き人に罪を被(き)せます。単に被告の不幸でなく実に当法廷の不幸です。願わくは裁判官に於いて鑑定人と証人の区別を立て、事実と推量との軽重を分ける事を弁護人は只管(ひたすら)に望みます。医者が自分の診察したその容体をありのままに言い立てるうちは証人ですけれども、自分が診察もせずに関係もしない事を学説に拠って判定する事になれば、最早証人の資格を失い、全く鑑定人なったものです。」
と述べ終わって椅子に就いた。
検察官はほとんどこの弁論を聞いて立腹したかと疑われるばかりに猶予も無く立ち上がり、
「証人と鑑定人の区別などとその様な詭弁を費やすに及びません。被告が一度胴忘れしたことをフト思い出したと言い立て、たとえこの言い立てが真実で医師の説が間違っているとしても被告の言い立てに証人はありません。証人のないことがどうして採用できましょう。証人が無いのみならず、今までの経験に照らして、学理に照らし、思い出すことが出来ないと決まったものであります。
経験と学者の説とを捨てて、証拠も無い被告の言葉を如何して採用できましょう。どの様な意見を持ち出そうとも被告の言い立ては飽くまでも偽りです。偽りでなくても法律はこれを偽りと認めなければなりません。特に被告が偽りの陳述をなす手際は既に村上達雄に対する申し立てで分かっています。村上が確かに突き落とされたのに相違ない。四歩ばかりよろめいて一間余りも後ろにある池に落ちたと書いてあるのに、それさえ被告は突き落とさないと申し立てます。この巧みな口を以ってすれば、思い出さない事を思い出したと言い立てるくらいのことは何の雑作もありません。
証拠を打ち消してまで言い逃げようと掛かっている被告です。医師の言葉を言い紛らせて逃れようとするのは怪しむに足りません。これを不思議な事に思い、被告の言うところを事実としては法廷に証人も鑑定人も無用の者となりましょう。本官が証拠をかれこれと照らし合わせ、事実のあるところをを探りまするに、被告は全く村上某を突き落とし、その帰りに潜(くぐ)り戸の所に於いて洲崎嬢に認められたと言う所までは事実でしょう。胴忘れをしたのではなく、被告は初めからこの事実を覚えていたのであります。覚えているこれだけの事実に弁護人の工夫を以ってその後を付け加えました。
今弁護人の付け加えた所を除き全く事実を暴いて申すならば、洲崎嬢に認められ、我が罪を知れたゆえ嬢を殺すより外は逃れる道がありません。拠って直ぐに池の傍に連れて行き、嬢を突き落としたものであります。不意をはかって突き落としました。もし被告の言うとおり嬢と押し合い組合ったものならば、当夜の着物に何処か破れたところがありましょう。然るに彼の着物は唯ボタン穴が裂けているばかりです。その外に何の痕もありません。
被告がもし仰向けに倒れたならば、背に当たって何か印がありましょう。彼の着物には印も何もありません。これらの点を合わせて見れば、被告が嬢を突き落としたところは火を見るより明白です。洲崎嬢を突き落としたのは被告です。被告の外に誰が嬢を落としましょう。これほど明白な事実はありません。」
と滔々たる弁を揮(ふる)い、妾が罪を責め来る。
妾自らその言葉に服し、ほとんど我が身を疑おうとする。五千の聴衆誰一人妾を下手人と認めない者はいないだろう。読者よ、妾は最早神の助けを借りる外は無い。首を垂れて天にある我が父を祈り始めたが、不思議や、この時傍聴席の後ろに当たり、耳を貫く様な声で
「被告を助けよ。被告を助けよ。」
と叫ぶ者がいた。
一同は申すに及ばず、検察官に至るまで何者ぞとその方を打ち見やると、この時又も聞こえる声、
「洲崎嬢を突き落とした真の罪人は外にあります。古池華藻嬢では有りません。検察官の誤りです。」
と叫ぶ。アア、これ、妾を助ける神の声か。妾は有り難さに我慢が出来ず弁護人と共に振り向くと、アア、これ、読者よ、この声は何者が発したものだろう。前回との挿絵を見て読者はその者が一人の婦人であることを察した事でしょう。
五千人の只中に立ち上がって妾の無罪を高く叫ぶこの恩人は婦人である。読者、試みに考えて見よ。今迄にこの人こそ妾を救うだろうと思われる婦人はあるか。有れば即ち誰であるか。
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