warawa9
妾(わらは)の罪
黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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妾(わらは)の罪 涙香小史 訳 トシ 口語訳
第九回
妾(わらわ)は村上を池の底に突き落としてしまった。あまりの驚きに度を失うとは実にこの時の妾の事である。
「いけませんよ。」
と払い除けた手先は村上を殺す刃物と為った。その手先は村上に当たったか当たらなかったか、今思っても分からない程だが、当たらなければ落ちる筈はない。
妾は村上を殺してしまった。川に落ちる人は助かる事もあるが、この池に落ちた人は助かることはない。初めから村上がなんとなく恐れを抱き、他の所に行こうと言い、又この池を死に水と言ったのは虫が知らせた予言だったか。秘密とは言え、村上は妾の夫である。妾は夫を殺してしまった。こう思って恐ろしさが俄かに迫り来て、立つ足も定まらず草の上に打ち倒されて身も世も無く転び泣くばかり。
「神よ助け給え、妾に助けを送り給え神よ。」
と声が枯れるまで叫び尽くしたが神は助けを送って来ない。アア父と下僕を呼んで来て、救い上げるほかは無い。父がこのことを知った上は何ゆえ妾が村上と闇を犯して池の傍にいたかを問い、終には二人の間を知って立腹する事は確実だが、その懸念を打ち忘れて村上を助けようとする一心で、
「神よ助けを送り給えと涸れた声を絞りながら、塀の下を伝へ伝って家の中に走り込んだ。悲しい事に妾はここに至って魂全く消え心全く尽き、何事も少しも覚えていない身となってしまった。
父の居間を目掛けて二階へと登った事までは知っているがその後は如何したのか少しも知らない。後で聞けば父はこの夜ある貴婦人の夜会に招かれて、行こうとして二階を下り廊下まで立出でた時、二階でひどく妾が叫ぶ声が聞こえて来たので、何事かと退き返したところ、妾が「神よ助けを送り給え。」
と狂気のように走って来て髪さえ振り乱して階段から飛び降りようとしている所だったので、直ぐに抱き止めて、その仔細を問うたが、妾は全く狂気か、さもなければ熱にでも浮かされたのか、
「神よ助け給え」
と口続けに叫ぶばかり。何事なのか全く分からず、きっと先日の熱病が再発したのだろうと直ぐに医者を迎いて来たが、医者は何事してか非常に驚き、神経熱病を引き起こしたものとは診断したけれど、村上を池に投げ込んだ為とは誰一人気付く者も無く、この後は毎日毎夜父が自ずから枕元に詰め切り、医者も三度づつ見張りに来て、及ぶだけの手を尽くした。
その間にも、
「神よ助けを送り給え。」
との言葉は妾の口に絶える時は無く、時によっては病気ながらも狂いに狂ってベッドから飛び出そうとする事もあったそうだ。しかし妾は全くこれを覚えていない。ただ夢の様に絶え間なくうなされるだけ。ある時は村上が泥に塗られた姿で現れ来て、
「何ゆえ私を殺したのです。」
と恨めしそうに述べながら妾を抱いて泥の池に飛び込む事もあった。又ある時は村上が池の底から非常に臭い泥を一握りづつ運んで来て妾の口に塗り、妾の目を塗り、果(はて)は妾の身を埋めることがあった。この外村上が泥に塗(まみ)れて妾の前に立ち顕(あらわ)れるのは幾度と数知れなかった。
是より幾日の後になるかが、妾は初めて正気に返りベッドの上で目を開いたが、アナ不思議や、横手の壁の所に夢の中で見たのと寸分違わぬ泥まみれの村上が立っている。妾(わらは)は驚きの余り顔を背け去ろうとしたが、妾の眼はこの所に引き付けられたように一寸も他に動かず。見まいとするが目に見える。恐ろしさに思わず、アレー」
と叫ぶと、聞き覚えのある医者の声で、
「ソレ、嬢様は全く神経熱病です。壁に写る私の影を見てこの様に驚きなされます。」
と言った。この様に言われて気が付けば成るほど泥の村上ではなく枕元にいた医者の影であった。
妾(わらは)は非常に弱い声でアアそうですかと言ったが病気になってから是がはじめての正気の言葉と見え、傍に居た父は、
「ありがたい、他人の言う事が分かり出したぞ。」
と喜んだ。
妾はこの言葉を聴きながら又眠ったがこの次に目を覚ましたのはこれから一週間後であった。
目は覚めたが辛くて首も上がらず、眠ったままの姿で聞くとも無く枕元の話を聞くと、父と古山であった。
(父)お前はマアあの夜嬢が病気に成った最中に洲崎嬢を連れて国に帰ると言うから止める暇も無く、それに洲崎嬢に分かれの面会もせず帰したが、きっと嬢も無事に帰り着いたことだろうな。
(古)それはもう私が送り届けて来ましたから、もとより間違いはありません。実は洲崎嬢も是非貴方に暇乞いをしたいと言いましたが私はこの嬢の病気もきっと何か洲崎嬢に気兼ねして色々心配が重なって出たものと見ましたから嫌がるのを無理に引き立てて誰にも暇乞には及ばないと言って引きずるように連れて行きました。私が初め洲崎嬢を連れて来たのにその為この嬢を病気にしては貴方に対して済まないと思いまして。
(父)でもお前、ソレは余計な遠慮というものだ。何も洲崎嬢が逗留したからと言って、この嬢が病気に成るようなことは無い。
(古)イイエ、無いとは言われません。女というものはつまらない事まで気兼ねをするものですから、それに又、連れて帰らなければ私の気が済みません。
(父)そう義理堅いこと言うとは、お前も随分人物が上がって来た。昨年辺りまではその様な義理に気が付く男ではなかったが。
(古)イヤ私も段々と後悔して身持ちもこの通り改め、第一に義理遠慮というものが無くてはいけないと悟りました。
(父)それは何よりも結構だ。
(古)時に叔父さん、今日又ここに帰って聞けば非常の事があったということですね。あの村上が・・・
(父)そうさ、俺も不思議でならないから三十人も人を雇い草を分けるように行方を捜させているけれど今もって何の手掛かりもない。もう新聞にでも雑誌にでも村上の失踪の事ばかり書いてある。
妾はこの言葉を聞き思わず一声叫んだが、又気絶したと見え、後のことは覚えていない。
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