aamujyou61
噫無情(ああむじょう) (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
ビクトル・ユーゴ― 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
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噫無情 仏国 ユゴー先生作 日本 涙香小史 訳
六十一 隠れ家 四
若し戸の外の人が、本当に蛇兵太(じゃびょうた)
で、戸を押し開けて入って来たなら、戎瓦戎(ぢゃんばるぢゃん)は否も応も無く捕まるので、万に一つも逃げる路は無いのだ。戎はそれを思って身が蹙(すく)んだ。それを思って玉の汗を浮かべた。
けれどそのうちに、壁に点じた蛇の目の様な光は消えた。外の人は又抜き足で去ってしまった。
戎はホッと息を吐(つ)いだ。
夜の明けるまで戎は、眠る事が出来なかった。今の人が本当に蛇兵太で有っただろうか。無かっただろうか。まさかに蛇兵太と思えない所もある。幾等彼が老猾(ろうかい)《悪賢い》な巡査部長だとしても、死んだと極まった此の身が、生き返って此の世に居る事を、そう早く知る筈は無い。と言って彼の寺の前の乞食の事を思うと、彼で無いとも言い切れない所が有る。戎は半信半疑に迷った。
夜が明けて後、家番の老婆に問おうかとも思った。けれど此方から問うのは、何だか疑いを招く様だ。或いは此の老婆が、警察と通じて居ないとも限らないから、知らない顔で、此方は此方だけの覚悟をするのが好いと、此の様に思い直した所へ、老婆が丁度、部屋の掃除に来た。それでも戎は黙って居たが、却って老婆の方から問うた。
「昨夜貴方は此の二階へ、人が来た音をお聞きでしたか。」
戎は惚(ほう)けた様に、
「イヤ別にその様にも思わないが、---アアそうだ。そうだ。何だか足音が聞こえたよ。---、あれは誰だエ。」
あれは誰だエ。全(まる)て気に留めて居ない風である。
老婆「新しいお客様ですよ。此の二階の一間を貸したのですが、未だ廊下などの案内に慣れない者ですから、此の辺へ戸迷うて来るかも知れません。」
戸迷うて来るとは、何たる旨い弁護だろう。忍びの燈火を以て、靴を脱いで、抜き足で戸迷うて来る人が何所に居るだろう。
戎「名は何と言う。」
婆「未だ良くは覚えません。次郎とか太郎とか、何でもその様な名前でしたが。」
戎「して職業は。」
少し問い過ぎるかも知れないけれど、問わずには居られない。老婆は様子有りげに、戎の顔を見て、
「職業は無しに配当金で食って居る方でしょう。貴方と同じように。」
と言った。益々異様な言葉である。何うも此の老婆が、虚心平気では無さ相だ。疑心暗鬼かも知れないけれど。
数時間の後である。戎は廊下に人の足音のするのを聞いた。丁度昨夜、階段を登って来たのと同じ足音の様に思われる。直ぐに戸の所に行き、内から鍵穴に目を当てて覗いたが、チラリと見たのは、その足音の本人が、二階を下らうとするところである。而して後ろ影で良くは分からない。けれど尋常一様の後ろ姿では無い。肩の様子から背の恰好、一種特別な所が有る。決して紳士では無い。警察官だ。警察官も只のでは無い。その一種特別な所が、彼の蛇兵太に一種特別なんだ。そうして丁度彼の持ちそうな、頑丈な杖(スッテッキ)をさえ持って居る。
愈々彼だと未だ認め切らないうちに、その姿は階段を下ってしまった。直ぐに窓を開いて戸外を見ると、彼か彼で無いかを見定める事は出来るけれど、若し彼で有ったなら大変だ。此方(こちら)が窓から出す顔を、彼方(あちら)に下から見上げられては、何の様な事に成るかも知れない。戎はそれが恐ろしいから、窓を開かない。何にしても、もう此の家に長居は出来無い事は分かって居るからと、直ぐに戎は落ちて行く用意を始めた。
此の日の暮れた頃、彼は下に降り、戸口に出て右左を見渡した。町は往来も極く稀で、別に疑わしい人も見えない。見えないと言っても、物陰にでも隠れて見張って居る人が、有るかも知れないけれど、そこまでは確認は出来ない。何でも逃げるなら今だと思い。直ぐ二階へ馳せ上がり、小雪の手を取って、
「サア、お出で」
虎の口を逃れて、狼の顎に入るとは、良く有る例(ためし)だが、戎は此処を逃れて、何の様な所へ行くのだろう。
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