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噫無情(ああむじょう) (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
ビクトル・ユーゴ― 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
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噫無情 仏国 ユゴー先生作 日本 涙香小史 訳
六十六 女院(あまでら) 一
「お前は何者、ここは誰の屋敷」
驚いて戎瓦戎(ぢゃんばるぢゃん)の問い返すのも尤(もっと)もだ。此の様な不思議が又と有ろうか。逃げ込んだ此の屋敷の畑男から、
「斑井市長さん」
と呼ばれるなどとは。
戎は熱心に男の顔を見た。月の光に透かして殆ど覗き込む様にして。
男は少し笑う様に、
「市長さん、私をお忘れとは酷(ひど)いですよ。貴方は私の命の親では有りませんか。私が未だ生きて居るのは、貴方のお陰では有りませんか。」
戎は漸(ようや)く思い出した。アア此の男は、星部父老と呼ばれた不幸な翁である。曾(かつ)てモントリウルで馬車の下に敷(し)かれたのを、戎自ら命を賭して馬車の下に入り、助けてやったのだ。その後絶えて打ち忘れて居たのに、今は自分が天地の間に身を置く所も無い様な状況と為って、図らずも此の男の前に立つとは、世に言う陰徳陽報と言う者では無いだろうか。
戎は咡(さけ)んだ。
「オオ思い出した。星部父老、シタがお前は何をして居る。」
父老「若い苗に霜避(しもよ)けをして居ますのさ。此の寒さでは、暁方(明方)の霜が酷(ひど)かろうと思いまして。」
何気無く答え掛けたが、又も初めの怪しむ色に立ち返って、
「エ、市長さん、ですが貴方は何してここへお出でなさった。」
成ほど怪しまれれば、答えなければ成らない。と言って何と答えよう。辺りの様子でさえも、未だ良くは分からないのに。そうだ答えるよりも、問うのが先だ。戎は反対(あべこべ)に問人と為って、
「それよりもお前の腰に、何故鈴を着けて居る。」
父老「是は私が、今何所を歩んで居ると言う事が、皆に分かる為です。」
皆とは誰、是れだけでは少しも分からない。
戎「私にはサッパリ合点が行かないが。」
父老「ナニ貴方、ここには婦人ばかりですから、男を危険な者として有るのです。私が近づけば、鈴の音を聞いて皆が逃げるのです。」
戎「エ、何で女ばかり、全体ここは何の屋敷」
父老「貴方は良く御存知ですのに。」
戎「イヤ知らないよ。少しも」
父老「アレ、貴方が世話をして、私をここへ住み込ませて下さったでは有りませんか。」
戎「ハテな、」
父老「ここはビクバスの女院ですよ。」
成ほどそうだ、彼を尼寺へ庭男として住み込ませてやったのだ。それも人の通手を頼んだので有ったから、全く忘れて居た。けれど今、その尼寺へ自分が逃げ込んだと言うのは、余りに不思議である。恐らくは、今、広い巴里で戎を匿(かくま)って呉れる家は、唯の一軒も無いだろう。
匿まって呉れないのみか、戎が逃げ込んで、一刻でも無事に立って居られる家は、決して無い。若し有るとすれば、それは唯此の尼寺のみだ。戎は心の底に深い深い感謝の念が起こった。神が若し、我が手を引いて呉れるので無ければ、何して百万軒も有る家の中で、唯此の一家へ逃げ込むと言うことが出来る者か。
偶然に似て偶然で無い。ここが即ち天与の隠れ家。何が何でも此の屋敷に踏み留まる工夫をしなければ成らない。ここを出たなら、もう身を置く所は無い。
此様に戎が考える間も、星部父老は彼の身を倩々(つくづく)と眺めて居る。
「ですが貴方は、何してここへお出で成さった。貴方は神様の様な善人ですけれど、それでも男です。男子禁制の尼寺へ」
戎「男子禁制でも、お前が居るでは無いか。」
父老「ハイ私は居ますけれど、男と言えば全く私一人ですよ、それだから鈴を付けられるのです。他に男は一人も入れません。」
戎「入れなくとも、私は当分ここに留め置いて貰わなければ成らない。」
異様に力の籠った言葉である。
星部父老は少々驚いた。
戎は進んで、厳かに、
「星部父老、先には私がお前を助けてやった。今は私の方がお前の助けを請わなければならない。」
父老は少しも躊躇しない。彼は却(かえ)って有難そうに、
「私が貴方を助ける。その様な御用に立つなら本望です。貴方の御恩を忘れる暇は無く、何うか少しでも返し度い者と、それのみ気に掛けて居るのです。ですが何の様に貴方を助けます。何すれば好いのです。お聞かせ下さい。」
戎「では言おう。お前は部屋を持って居るのか。」
父老「部屋と言っても、此の屋敷の隅に在る樹の陰の荒(あば)ら屋ですが、独り住居には勿体無い。総体で三間有ります。」
戎「宜しい」
ではお前に二つの願いが有る。第一は誰にも知らさない様に、私をその部屋へ隠して置いて貰いたい。」
父老「承知です。第二に。」
戎「第二は私の事を少しも問わない様にして貰いたい。」
第二の方が却って第一より難しいかも知れない。父老は聊(いささ)か顔を長くした。けれど快(こころよ)く承知して、
「貴方の事ですから、お問い申さずとも、悪い事を成さろう筈は無く、総て神の御心に叶った事に相違無いのです。何にも問わずにお言葉に従いましょう。」
全くの忠僕である。
戎「好し、約束は是だけにして、では行って子供を連れて来よう。」
子供と聞いては、驚かない訳にはいかない。
「エ、エ、子供、子供がお有り成さるのですか。」
問いはしても、強いて返事を得ようとはしない。後は無言で戎の後に従い、小雪の寝て居る小屋の方へ行った。
半時間と経ないうちに、小雪は此の父老の住む小屋の中に連れて行かれ、焚火の前で温められる事にはなった。
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