bijinnogoku22
美人の獄 (金櫻堂、今古堂 発行より)(転載禁止)
ボア・ゴベイ作 黒岩涙香、丸亭素人 共訳 トシ 口語訳
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美人の獄 黒岩涙香、丸亭素人 共訳
第二十二回
丸子嬢は何が故にこの様に心に驚いたのだろう。嬢が書店に入って来た時、その入り口に立っていた二人の紳士は、声高く梅林雪子の重罪事件を評判していた。
甲「雪子は有罪サ、一旦放免に成ったにもせよ、今に見たまえ、処刑の報に接するのは必然さ。」
乙「併し左様(そう)でも無かろう。僕の考えでは、罪は無いかと思えるデ。」
と頻りに雪子、雪子と呼ぶ声、嬢の為には、その胸に刺し込む剣に異なら無い。
嬢は先日、服部勤が、
「梅林雪子の名前は欧羅巴(ヨーロッパ)中で恐らく知ら無い者は無し。」
と言ったことが偽りでは無かったと感じ、今若しこの土地で、その身が雪子の化身であることを人に知られることがあれば、その恥ずかしさ、その苦しさは、身を切られるよりも大きいに違い無いと思い惑ったので、身を措(お)く場所が益々狭く思われ、脆弱(かよわ)い婦女(おんな)の常として、俄(にわ)かに心が病(やま)しくなって、用事を終わる暇をも待たれず、僅かに一冊の小説を買い求めて、そのまま旅館(やどや)に立ち帰り、嬢が室に入った時は、目も暗む程に心を責めて、卓志(テーブル)の傍らに倒れ、暫しは人事も打ち忘れていた。
ややあって、旅館の下婢(めしつかい)がこの部屋に入って来た。嬢の苦悶の有様を見て、非常に驚き、早速主人にその由を告げ、医師を迎えて厚い手当てを施した。それでなくても嬢は弱り果て、気も心も常ならないのに加之(かててくわ)えて、倒れた時、その胸部を打ち挫(くじ)いたので、非常に心臓を刺激した。
医師も容態の危篤なのを認めて、看護婦人を雇い入れ、治療に心を尽くしたが、不幸なる嬢の病気は益々その勢いを増し、翌七月一日には、最早医師もその生死を見分け兼ねる程に至った。この日は、「シチー・オブ・ピーアル」号が新約克(ニューヨーク)に出帆するはずの日である。我が身にこの様な災害が降りかかろうとは、予め知る由も無かったので、嬢は書店に行く前に、既に汽船宿で乗船切符を買い入れて置き、更に乗客名簿に記名をさえ済ましていたが、出帆の当日に及び、嬢は病床に在って、九死一生の有様であった。汽船は嬢の回復を待たず、定めの時間に艫綱(ともづな)を解き、新約克(ニューヨーク)に向け出帆してしまった。
嗚呼丸子嬢の身には、何時まで不幸が纏(まと)わるのだろうか。漸くにして囚獄の苦を逃れ、更に楽しい月日を送るための端緒(いとぐち)を開こうとすれば、今又病の為に、危篤の淵に沈む。嬢は再び生き回(かえ)って、この世の人と成ることが出来るだろうか。嬢は全く世人の疑いを解くことが出来ずに、冥土(あのよ)へ旅立つに至るのだろうか。今後三、五日の間は、実に嬢の運命を定めてしまう厄日であると思われる。
この様にして、七月一日を以って里波不(リバプール)を出帆した「シチー・オブ・ビーアール」号は、その後幾許も無くして、一つの驚くべき凶報を全英国に与えた。同号は新約克(ニューヨーク)に航海中、米国の軍艦「ロヤル・オルパート」号と衝突し、共に船体が酷く裂け砕けて、数千の水兵旅客は悉く海底の魚腹に葬られ、僅かに死を遁(のが)れて生命を全うした者は、一人だけとなり、全英国の各新聞紙が、一旦その報道を掲げるや、読む人は皆、その不幸な旅客が、非業の死を遂げたことを悲しまない者は無かったが、中でも服部勤の驚愕(おどろき)と哀悼(かなしみ)とは、一体どれ程だったことだろうか。
初めの頃は真誠(まこと)の事と思う事が出来ず、呆然として宛(あたか)も夢を見ている様であったが、重ねて新聞紙を繰り返すと、更に明瞭簡単に下の雑報を掲げていた。
海上の惨害、「シチー・オブ・ビーアール」号は旅客、貨物を搭載したまま洋中で沈没した。溺死者の人名は下の通りと、その表をさえ掲げた。ビーアール号は紛れも無く、丸子嬢が新約克(ニューヨーク)に海航する為に乗るはずの汽船である。嬢が病の為めに遮(さえぎ)られて、同号に乗り組まなかった事を知らない服部勤は、驚き余って心も狂うばかりであった。傍に在る書記に向かい、
服部「オイ、君は梅林雪子夫人を覚えて居るだろう。」
と突然の尋問(たずね)に書記は喫驚(びっくり)し、急に顔色を変えて、
書記「ハイ、存じております。」
服部「あの夫人は既に姓名を安部丸子嬢と変え、「シチー・オブ・ビーアール」号で出立したが、可哀相に運悪く船が衝突して溺死した。コレこの通り死んだ人名表に明らかに記載してあるではないか。」
と言うのを聞くより、何故か書記は猶更面色を失い、宛も死せる人の様になり、終日元に戻らなかった。服部は却って、その為体(ていたらく)に驚いたほどであった。
一方、里波不(リバプール)に在る丸子嬢は、数多い苦難に冒(おか)されたけれども、未だ命数は尽き果てず、その後、病も日に増して平癒に赴き、やや人心に回(かえ)った時、「シチー・オブ・ビーアール」号の沈没の報道を聞き、更に妾(わ)が名が溺死者中に並び書かれたことを知り、苦しい胸を擦りながら、
丸「アア私は是で死ぬのが二度だ。梅林雪子で居る時、故郷で死んで、安部丸子と成ってから又海の中で溺死した。もうこの上はこの世界で、誰も私の身の上を知って居る人は無い。夫も無し、家も無し、天が下に知人(しりびと)の無い、真(ほん)の一人者と成って了った。実に行く末心細い身の上と成った。」
と独り嘆きながら、瘦せ細った両手を顔に押し当てて、唯潜々(さめざめ)と泣いて居た。
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