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武士道 一名「秘密袋」 (扶桑堂書店刊より)(転載禁止)
ボアゴベイ作 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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武士道上編 一名「秘密袋」 涙香小史 訳
第二十八回
弥生が明朝まで歩くことが出来ると答えるのを聞き、縄村中尉は、
「貴女にそれだけの我慢が出来れば無事に勤王軍の落ちた先まで行かれましょう。コレ鉄助、勤王軍は何処へ落ちた。」
と双方へ向いて云った。
鉄「先日から敗軍が続き退いては又押し寄せなどして頭到昨日は総敗軍となりましたが、其の間は毎日幾人づつか落ちて殆ど四方へ逃げ散った有様ですが、何でも彼らが纏(まと)まる所はアブランチ地方だと申します。爾(そう)でしょう。昨日の総崩れは貴方の荘園の方へ逃げました。大将その他の頭株は大抵此の中に在った云います。」
中尉は
「フム、俺の荘園の方へか。」
と言って考へ始めたが、そも中尉の荘園と言うのは昔薔薇(しょうび)夫人の許へ通ったと伝えられる中尉の大伯父縄村海軍大尉と云う人が、晩年に住んだ所で、郷名をケロン荘と言い、その人が死んでからは今の中尉に伝わった者なれど、中尉は自らはこの様な田舎に住む気持ちは無く、十数年来番人に任せ、殆ど捨て物としていた有様だったと言う。
中尉は更に
「馬で明朝まで走れば追い付けるな。」
と云いながら、鉄助の持って来た着替えの軍服を着け、武器を負うなどして終って、
「貴様が買い整へたと言う馬は何処に居る。」
鉄「町外れの飛脚屋の馬でその厩(うまや)に繋(つな)いであります。茲から遠くも有りませんから。」
縄「数は二頭か。」
鉄「ハイ、貴方と私が乗るだけですから、併し飛脚屋の事ですので、まだ幾頭か飼って有ります。此の御婦人の乗る分も手に入れましょう。」
縄「では直ぐに出立しよう。一刻も猶予は出来ない。」
と云い、立去ろうとして海の面を顧みると、海は益々高くして岩に砕ける音は凄(すさ)まじかったので、
「アア、悪人等は二人とも天罰を受けて仕舞ったと見える。是では弥生さんも一廉(ひとかど)は安心でしょう。」
と言ったが、果して是より数日の後、彼等の死骸は茲(ここ)を去ること数里のサンモロの海濱に、腐れ爛れて打ち上げられたと云う。
斯(か)くて、三人茲(ここ)を立ち町外れにある飛脚屋の家というのに到ると、中尉が先の夜射殺されようとしたボース河の辺なので、中尉は少しの間は我が身の上に様々の変遷があった事など思って、感慨に堪えなかったが、是が武人の常だと思い捨て、真っ先に進んで飛脚屋に入り、炉辺に座している主人に向って、
「先刻鉄助が買い入れた二頭の外に猶一頭の馬を買い入れ度い。」
と言うと、主人怪しそうに中尉と弥生の顔を眺めて、
「貴方には一頭も売れません。先刻の約束は取り消します。」
と非常に無礼に答えたので、中尉は怒りを帯び、
「売らぬとは如何言う訳で。」
主「貴方の様な者に売れば明日共和軍から首を切られます。隠しても了(いけ)ません。貴方は敵へ内通した罪で先日此の女と共にベントの牢へ入れられた人です。今は町中の評判に成って居ます。今夜二人で牢を抜け出で勤王軍へ行くのでしょう。内通者と見たら訴え出よと兼ねて市長の厳命です。」
と言う。
中尉は益々怒り、
「内通者などと、人を見損なうな。」
と叫び、打ち殺そうとする剣幕で、床の上に飛び上がると、主人は驚いて身をかわし、其の儘(まま)外に飛び出たのは、必ず内通者密告の為にグランビル市を指して行った者に違いない。
縄「少しでも早く馬に乗って去らなければ了(い)けない。市長の部下に追い掛けられては面倒だ。鉄助、厩(うまや)は何処だ。」
と言うと、土間の隅から、
「厩へ案内して上げましょう。」
と言う細い声があった。何者かと振り向き見ると今迄は気も付かなかったが十二、三歳の怜悧らしい小僧である。中尉は之を引き出して、
「貴様は何者だ。」
と問うと、鉄助歩み出で、
「イヤ、是は私が知っています。此の家に雇われて、走り使いの用をする小僧です。」
小僧は自ら口を添へ、
「ハイ、「ケロン」荘の百姓の息子で呂一と云ひます。父母が亡くなって、一昨年から茲へ奉公しています。」
「ケロン」荘の百姓と言えば我が小作人にも斉(ひと)しいいので、中尉は何と無く心を許し、
「走り使いをしているなら此の近辺の道案内は好く知って居るだろう」
呂「ハイ、荷車に従って何処まででも行きますから、知ら無い所は有りません。」
縄「では勤王軍が何方(どちら)へ落ちたか知っているか。」
呂「今日の昼頃まで幾隊も此の辺を通りましたが、皆アプランチの方へ行きました。」
縄「其のアプランチまで夜中に俺を案内する事が出来るか。賃金は充分遣るが。」
呂「ハイ、目を閉じて居ても案内が出来ます。賃金などは要りません。この様な意地悪な主人に使われて居るより、兵隊に成った方が余ほど好い。如何か連れて行って下さいな。」
縄「フム、中々面白い奴だ。連れて行って遣ろう。先ず厩から馬を連れて来い。」
呂「私一人では危険で厩(うまや)へ行かれません。」
縄「兵隊にも成ろうと言う癖に臆病だな。何が危険だ。」
呂「イエ、大きな「ラペ」と言う犬が居ます。私一人では噛み殺されて仕舞います。」
縄「では一緒に行ってやろう。」
と云い、猶(なお)衣服の乾かない少女弥生を鉄助と共に炉の傍に身を焙(あぶ)らせて置き、中尉は呂一を連れて厩(うまや)の方を指して行った。
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