busidou67
武士道 一名「秘密袋」 (扶桑堂書店刊より)(転載禁止)
ボアゴベイ作 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
since 2014.2.22
下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください
更に大きくしたい時はインターネットエクスプローラーのメニューの「ページ(p)」をクリックし「拡大」をクリックしてお好みの大きさにしてお読みください。(画面設定が1024×768の時、拡大率125%が見やすい)
武士道後編 一名「秘密袋」 涙香小史 訳
第六十七回
「客に下向きの馳走をせよ。」
とは実に無残極まる命令である。前からこの様な時の来る事を覚悟していた囚人等も此の語を聞いては今更の様に悲しさ、恐ろしさに崩(くず)れ折れて、泣く声、咽(むせ)ぶ声が甲板の四方に起こった。
船員中の屈強な男四、五名、前から「下向きの馳走」執行人として選ばれて有る者と見え、メイソンの声に応じて立ち現れ、列をなしている囚人の右の端に行き、端にいる一人を捕らえた。是れ小桜露人である。メイソンはこれを見て、
「イヤ、其の者へは別に異なった馳走をする。列の左の端から着手せよ。」
と云う。
腕八は我が目的が全く成れりと喜んで黒兵衛の耳の辺りで、
「如何(どう)だ約束通りメイソンは小桜を取り除いて置くじゃないか。」
と誇り説くと、黒兵衛は冷淡に、
「若し取り除けなければ此の斧で叩き殺す迄の事さ。」
と答えた。
執行人等は直ちに列の端に馳せ寄ったが、茲(ここ)に立っているのは弥生である。
「此の女から初めますか。」
と問うた。
「イヤ、其の女も後に廻し次に立つ奴から初めよ。」
と云う。次に立っているのは年六十をも越したかと思はれる僧侶で、白い髯(ひげ)が胸の辺りまで垂れているなど、一目で尊敬の念を催されるほどなので、弥生は先程から此の人に縋(すが)り、臨終の慰め言葉を受けて居たので、今此の人が先ず溺刑に処せられ様とするのを見、殆(ほとん)ど父に分かれる思いで、
「父よ、私も共に。」
と叫ぶ。此の人穏やかに、
「イヤ、此の河に投げられる者は皆再び天国で廻(めぐ)り逢うので、先を争うには及びません。」
と云い、其の言葉の僅(わず)かに終わると共に早や、水の中に投げ込まれた。執行人は事に慣れているだけあって、次から次へと投げ込んで行く其の早いことと言ったら驚く程だ。投げ込まれる人、一人として抵抗出来る者は無く、聞こえるのは「ざんぶ」と響く水の音と、時に囚人の咽喉から洩れる泣き声だけ。
投げ込まれる人は如何(どう)なるのだろう。河の面には其の浮かび上がるのを待って更に叩き殺す為、篝(かがりび)を焚いて待っている小舟、十数艘ある。其の篝(かがりび)が忙しく行き違うのは、折角浮かび上がった人が洩れなく殺されつつ有るのを示している。
弥生はこの様な恐ろしい様を見て、耐える事が出来ず、少しでも早く殺されようとして、一人の囚人が投げ込まれる毎に、身を人が立って居た跡に寄せ、成るべく執行人の手近から離れないようにと勉めて居た。それなので一人が殺されれば一席を右方に移し、生き残る人が減る度に弥生の身は益々小桜露人の許に近づいて行ったが、弥生自らは今は死を祈るのに余念が無く、殆(ほとん)ど露人の事さえ思って居ない。
是に引き替え、露人は弥生が一席一席近づいて来る事を知り、最後には我と弥生と、たとえ少しの間でも共に並び立つ時が来るだろうと、そればかりを死際の楽しみとしているのは誠に憐れむべき心中である。
執行人は十余人以上投げ込めば小憩(こやす)みを許されるとの事で、今は既に三度の小憩を経た。
五十人の囚人のうち残るのは唯十人余りと成った。この時までもメイソンの口からは小桜を客室へ入れよとの命が下らないので、黒兵衛は又も斧の刃を睨(にら)み始め、腕八も非常に不安心の思いをしていると、メイソンは同僚ギランが酔いの為居眠りを始めたのを見澄まし、その目を覚まさえないようにとの用心と見え、今迄より低い声で、
「サア、茲(ここ)で少しの慰みが有る、右の端に居る其の美しい男を客室へ入れよ。客室で嬲(なぶ)り殺しに遭わせて遣(や)ろう。其の役目は其処に居る船大工が適任だ。船大工も共に下へ送れ。」
と云った。腕八はうまく行ったと喜び、自ら先に立って小桜露人と黒兵衛を引き、甲板を下りて客室の戸口に行き、従って来た執行人には聞こえない様、黒兵衛に囁(ささや)いて、
「サア腰の物を渡せ。」
と云う。黒兵衛は初めて満足した様子で、
「ソレ受け取れ」
と言って胴巻きを手渡しすると、腕八は重さを測って、嬉しそうに衣嚢(かくし)に納め、二人を客室に入れ終わった。其の戸を閉じて、執行人よりも先に又甲板に出て来たが、此の次には縄村中尉と約束の通り、弥生を助け事が肝腎なので、又もメイソンに向かい、
「無事に客室へは入れたけれど、若し斧で以って窓を破り、河の方へ抜け出る様な事が有っては成ら無い。私はその様な場合に彼らを叩き殺す為之から直に小舟へ乗り移る。爾(そう)して特別に客室の窓を見張って居る。」
と云う。
メイソンは深く前後を考える暇も無く、
「オオ爾(そう)しろ。」
と答えたので、腕八はうまく行ったと、先程から縄村中尉を載せて窃(ひそ)かに此の船に従って来ている彼の小舟へと乗り移った。
後にメイソンは再び馳走を引き続ける命令を発しようとすると、今迄眠って居た同僚ギランが目を覚まして、生き残って居る囚人を見廻し、
「ヤア、花嫁は未だ居るが、肝腎の花婿が見え無く成った。メイソン、先刻私が思い着いた婚礼はどうなった。」
と聞いた。
次(第六十八)へ
a:739 t:1 y:0