gankutu238
巌窟王
アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
since 2011. 8.10
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史外史伝 巌窟王 涙香小子訳
二百三十八回、『段倉家』(四)
大検事の公用とは何であるか。巌窟島伯爵(いわやじまはくしゃく)がどの様にそれに関係が有るか、これが一同の怪しまずにはいられないところである。巌窟島伯爵の言葉はただ蛭峰、段倉両夫人に対しての私語であるけれど、そばにいる人々は公の演説でも聞くよう様に静まった。そうして、その静けさが段々四方に伝わって、広がって行くようであった。
中でも花婿の皮春小侯爵は最も耳を澄ました一人である。彼は何気なく構えてはいるけれど、その実は心配で仕方が無い気持ちで聞いていることはその目が巌窟島伯爵の方に注ぐよりも、部屋の総ての方面に注ぎ、まさかの時の逃げ道を探しているように見えたことで察せられる。一体全体検事とか警察とか言う名前を聞いて、第一に耳を傾け又第一に用心するのはどの場合においてもその身に暗いところがある人である。
伯爵は自分の言葉が大抵の人の注意を引いたことを見澄まして、それとは無く口を開いた。「実はですね。先夜私の家に忍び入り、そうして立ち去る時に変死した泥棒があったでしょう。」
蛭峰夫人;「そうです。そうです。新聞にも出ていました。」
段倉夫人;「新聞どころか今世間で言い伝えて噂しているでは有りませんか。」
巌窟島伯爵;「アノ泥棒の変死は、縄梯子で塀から下りるところを、下に待っていた相棒が刺し殺したものだろうと警察でも鑑定を付けたのです。」
段倉夫人;「そうです。そうです。」
応えるところへ段倉も調印を済ませて静々と帰って来た。伯爵の語は次のごとく進んだ。「警察官がその現場へ来て、彼の傷跡を調べるため、着ている物を脱がせましたが、調べ終わって再びその着物を着せる時、何と言う不注意でしょう、その中のチョッキだけ取り落として去ったのです。」
取り落としたのではない。実は伯爵、イヤ、暮内法師が、警官の来ないうちに取り除けて置いたのだ。ここまで聞いて皮春小侯爵の目使いは、誰にも気が付かれないけれど、益々不安の様子になった。のみならず、実際その実、人の後へ、後へと少しづつ引き下げて、段々戸口の近い所に寄って行くように見えた。
伯爵;「所が今日になって私の僕(しもべ)が下水の溝の中にそのチョッキが落ちているのを引き上げたのです。見ると全体が血まみれになって、脇の方には短剣で刺した穴まであるのです。」貴婦人の何人かは恐ろしそうに身を振るわせ、又声をも発した。しかし恐ろしいだけもっと聞きたい。
伯爵;「それを僕(しもべ)が調べて更にそのポケットの中から一通の手紙を引き出しました。これはそ奴が郵便に出す積りで、未だ出さずにいたのだと見え、切手まで貼ってあるのですが、どうでしょう。その宛名が」と言って今座に着いた段倉を顧みて、「段倉さん、貴方に宛てて有ったのですよ。」
段倉といえども決して良心の清い人間ではない。過ぎた昔を顧みるとどの様な悪人と掛かり合いが有るかも知れない。彼の顔の色は目につくほど変わったけれど、、流石は事になれているだけに直ぐ取り直して、最も平らかな様子に返り、「銀行頭取をやっていますと、訳のわからない奴らが色々な無心状《借金申し込み状》を送りますので。」とうまくそらせた。
段倉夫人も日頃夫と罵(ののし)り合ってのみいるにもかかわらず、この様な場合には夫の不名誉が自分の身に及ぶから、幾らか援兵という意味で、「でも、伯爵、そのお話は、今夜蛭峰さんがここに出席なさらない事柄とは関係が無いではありませんか。」
余計な枝葉は話さずに早く筋道だけをお話しくださいとの横槍である。
伯爵;「何しろ非常な証拠物件だろうと思いましたから、直ぐ私はそのチョッキを手紙が入ったまま蛭峰大検事に送ったのです。今夜大検事がここに来ないのは至急にその事を取り調べるために他なりません。何しろ段倉さん、このパリーにおいてもっとも私が愉快に感じることの一つは犯罪事件が手早く取り調べられ、罪の詳細から関連の範囲が簡単に分かることにあります。貴方に宛てた手紙は有っても、勿論貴方の顔さえ知らない奴だと言うことは、今頃大検事の手で良く分かっているでしょう。」と言って異様に慰めた。
しかし、かの曲者がまんざら段倉の顔さえ知らない奴では無いと言うことは、その名が分かると共に蛭峰に分かるだろう。先ほどから後へ後へと下がっていた皮春小侯爵は関係の範囲が容易に分かると聞いた時、じっと伯爵の顔を見たが、彼は人の顔色など読むことに妙を得ているだけ、伯爵にこれらの語が深い目的無しに出ているのではないと見抜いて、第一の客室から早や第二の客室へすべり入った。何だかこの婚礼は円滑に終わりそうはには見えない。
第二百三十八回 終わり
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