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白髪鬼
マリー・コレリ 著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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白髪鬼
(五十五)
ナイナがギドウを恐れる様子は、十分に明白だが、今日すぐ逃げて行こうとするのは結局私にとっても幸いなので、私はそのことに賛成し、
「いや、その方が良いです。しかし、修道院へ入るとしても、私が会いに行けば、貴方に面会はできるでしょうね。他の男と違い許婚の夫ですから。」
「はい、いつでも会えるように私からそこの警備人に言っておきます。修道院の規則は非常に厳しいのですが、私は元の修道生と言うだけで、今は修道生ではなく、客分ですからそれくらいの自由は許してくれます。その代わり時々貴方が会いに来てくださらなければいけませんよ。私も心配ですから。」
「はい、折を見て会いに行きます。しかし、今日はこれからすぐその準備にかからなければならないでしょうから、私はおいとまいたします。」
こう言って私は立ち上がったが、ナイナは引き止めようとするように、続いて立ち、「いや、帰しません。キスの済むまでは。」と言い、笑顔を作って私の方に寄って来た。その様子の愛らしさ、優しさには私もほとんど魂を奪われ、我知らず抱き寄せようとするほどだったが、たちまちにして思い直し、これは偽りの笑顔なのだ。
ギドウにも盗ませた笑顔なのだ。私が一生を誤って血統連綿たるロウマナイ家を亡ぼそうとするものはすべてこの偽りの笑顔だったのだ。こう思うと彼女を抱くことは火を抱くよりなお辛かったが、これも復讐の一段階と思って、虫を殺してナイナの言うのに任せて、愛のため前後夢中の恋人のまねをして別れた。
宿に戻ると、もはやこれ以上差し迫った用事はなかった。いよいよギドウめが帰ってくるまで、まず暇な体だが、万事準備が肝心だと思うので、私は一方の戸棚から皮製の異様な箱を取り出し、従者瓶造を呼び開かせると、彼は怪しそうに私を顔を見たが良くその分をわきまえて、一語の無駄言も発しなかった。
命令に応じて押し開く箱の中から現れたのは、立派に作った一対二挺のピストルだった。彼は丁寧に見て、
「二挺とも手入れをしなければならないと思います。」
「早速手入れをしておけ。」
彼は今は不審に耐えられなくて、恐る恐る私の顔みて、
「旦那様でもこのような物をお用いになることがありますか。」
「有るか無いか黙って見ていれば分かることだ。」この無愛想な言葉に彼は自分の身分と職分を思い出したように、「恐れ入りました。」と小声で言い、そのピストルを箱のまま持って私の前から退こうとした。私は呼び止めて、
「これ、瓶造、お前は近頃には珍しい若者で、よく私に仕えてくれているが、近い内に、またその方に非常に重大な役目を言い付ける事が有るかも知れない。どんな辛いことでも、黙って勤めてくれるか。」
瓶造は少しも驚かず、むしろ喜んでいるような様子で、
「旦那様、瓶造は兵役を済ませた男です。魂はまだ武人です。勤めと言うことは良く心得ておりますから。」
「いや、それは感心だ。」
「貴方様のおためには鉄砲の筒先に立ち、的にされることも嫌がりません。」
断固たる返事の中には十分な勇気も見えるので、私は真に感心して、手をさしのべ、瓶造の手先を握って振ると、彼は全く心服したように、うつむいて私の手の甲にキスをし、無言のまま立ち去った。
ああ、瓶造はただの雇い人なのに私のために死ぬのを厭わないと言う。
彼だけでなく、老僕の皺薦も、また、飼い犬のイビスまでも真実私のために忠義を尽くすのに、修道院で厳しい教育を受けたナイナ、生涯を私と一体なる夫婦の縁を結び、神の机に膝を折って、変わること無しと誓いながら、かえって私に一寸の忠義もなく私を欺いて不義の快楽を貪ろうとする。
その相手のギドウもまた私にとっては雇い人のような浅い関係には留まっていなかった。ほとんど兄よりも父よりも深い恩をうけ、私の信任を得ながら、私を欺いて平気でいる。思えば思うほど彼らの罪は深い。
とはいえ、今はいよいよ復讐の間際まで押し寄せてきたので、何事も言うに及ばないと、私は胸をなでて静かに待っていたが、それから夜になり、私が夜食を済ませた頃、瓶造は一通の手紙を持って私の部屋に入って来た。
「ただいまロウマナイ夫人の馬丁(べっとう)がこれを届けてまいりました。」と言う。開いて読むとナイナが修道院に着いて書いたもので、
「折葉、私はただ今無事にこの修道院に着きました。今朝ほどの御身のお世話は本当に私を愛するように見えました。そのことを思い出すと、うれしさが心にあふれて忘れられないほどに思っております。今居る修道院は昔なじみなので私が来たことを喜ぶこと、一通りではありません。すでに御身が何時来てもさしつかいないように計らって置きましたので、いつまでも私を寂しいままにしないでください。」とあった。
その筆から出る言葉もその口から出る言葉と同じように巧みでしかも偽りなので、私は瓶造が下がった後で、「ええ、汚らわしい」と叫び、ずたずたに引き裂いて火にくべた。ここに至っては、もはや一日の心を労した疲れのため、気分が非常に悪いのを感じたので、私はベッドに入ったが、疲れていたのになかなか眠ることができなかった。
翌朝の明け方になって、少しまどろみ目が覚めたが、再び眠られるとも思えなかったので、そのまま起き出したところ、大いに私の心を引き立てる一物があった。それは他ならないローマから発したギドウからの電報だった。
その文面ははなはだ明快で「仰せのごとく来る二十八日に帰ります。御地の駅に着くのは午後六時三十分です。ナイナの所に行くよりまず第一に御身の所に行き、お申し越のパーティーに出席します。私のためにこれほどまで尽くされるご恩はお目にかかった上でなくてはとうてい謝しきれません。」云々(うんぬん)と書いてあった。
私はあたかも相撲取りが土俵に上がって相手と顔を合わせるやいなや、たちまち何もかも忘れて、ただ全身に力瘤が現れてくるのと同じように、寝不足も、気分の悪いのも全く忘れて、ただ武者震いに体が震えるのを感じた。読者よ、私はすでに復讐の土俵際に立って居るのだ。待ちに待った土俵際は実にここなのだ。
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