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白髪鬼
マリー・コレリ 著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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(七十四)
これから二日目に私は親しくリラ嬢を見た。
この朝ネープルにいるあのダベン侯爵からの一通の手紙と共に何やら小包を送って来たので、私は山の静かなところへ行き、木の陰で景色などを眺めながら一人密かに開いて読もうと思い、その手紙とその小包をポケットに入れて、山の中腹まで登って行くと、道のかたわらに古い教会があった。
このような教会には、意外に古代の珍しい絵額などが有るものなので、入って本堂を見回して見たがこれと言うほどの物はなかった。少し失望してまた出ようとする丁度その時、年十四,五と見える少女が、神前にささげるためだろうか、果物の初物を手に持ち、私とすれ違いに本堂に入って来た。
これはもしや瓶造が褒めていた宿の娘リラではないかと私は立ち止まって、再び出てくるのを待っていると、間もなくささげ終わったと見えて、そろそろと引き返して来たので、私は横の方からその前に歩み出ると、ただ一目顔を見て、思わず尊敬の念を生じ首を垂れて礼ををした。
これは何のためだろう。その顔が余りに美しいためか。いやいや、美しさはナイナに及ばない。またその衣服を見ても見る影もない田舎の娘の作りで、少しも尊敬し首をたれるところはなかった。私は何のために礼をしたのかほとんど理解できなかったが、その容貌のどこかに何となく清らかで、何となく気高いところがあった。
一目見てその心の純粋無垢な事が知られたからだ。その上、どこやらその顔に宿の主人の面影も見えるので、私はこれがリラであることを疑わなかった。
リラは私の礼を見て少し顔を赤くしたが、あえて恐れる様子はなく、非常にしとやかに礼を返し、私を知っているように、「貴方様は景色をご覧になっておられるのですか。」とたずねた。
私はこれに返事をせず、ただ柔らかな声で、「貴方はリラだね。」リラは再び赤らめて、「はい」と答え、さらに、「景色ならば、ここから左の方に行きますと非常に良い所がございます。」と指し示した。
「貴方はもう帰って行くのですか。」
「はい、貴方様のお昼の準備をいたしますので。」
「おお、感心だ、お母さんを手伝ってコーヒーでも入れるのか。」
「はい、貴方様のコーヒーはいつも私が入れています。」
「道理でおいしいと思ったよ、そうしてコーヒーを入れるそばにいつも瓶造が来て手伝ってくれるでしょう。」
「はい、瓶造さんは親切なお方です。お母さんもそう申しております。それにですね、私に料理が上手だなどと言いますので、あの方のコーヒーも私が」
「おお、貴方の手で入れてやっているのですか。」
「はい、私が入れてやると瓶造さんはどんなに喜ぶことでしょう。」と罪もなく話す言葉に、たといようもない愛らしいところがあった。
私は結ばれた我が心もこれのために開いたような気がするので、瓶造の見立てに感心し微笑みながら、「あまり瓶造を喜ばせるとネープルに帰るのが嫌になるかも知れないから、用心しないといけないよ。」と戯れると、リラはまだその意味を理解できないと見えて、不審そうに顔を傾けたが、別に恥ずかしそうにはせず、瓶造のような正直者がこのような清い少女に目を付けるのは天然の良縁とも言うべきものかと心の中でうなずき、
「いや、リラさん、お母さんが待っているだろう。私はどれ、左の方に行き、今教わった景色でも見て来よう。」と言うと、リラは、「はい、いつお帰りになってもお支度の用意ができているようにしておきます。」と答え、そのまま身を向き直って、坂道を転がる玉よりもまだ軽く下って行った。
私はその後ろ姿を見やりながら、我知らず深いため息をもらした。ああ読者よ、私の生涯はもはや取り返しがつかないほど何もかも全く失い尽くしてしまった。世にはこれほどまで清浄の少女も居るのに私は再び妻を迎え楽しい月日を送ろうとしても得られるはずがない。私は何のために、リラのような罪も知らず、汚れも知らない、真に造化の神が作ったままの女を求めないで、ナイナのような毒深い者を娶ってしまったのか。
ああ、問うまでもなくその子細は分かっている。私がもし結婚の以前にリラのような者を見たとしても、その清いことを知ることはできなかっただろう。田舎娘と思って顧みもしなかっただろう。私は実に社会の風俗に間違った考えを植え付けられた者なのだ。私のような紳士とも貴族とも言われる者は社会の風俗に縛られて、令嬢とか、「素性正しい」とか言える細工物を娶らなければならい。
令嬢の名は美であるが、実は風俗に細工され、礼儀のためにはおかしくもないことに笑みを浮かべ、尊ばない人に頭を垂れ、すべて交際の上にある嘘、偽りの駆け引きを飲んだ怪物ではないか。交際に慣れているというのは偽りに慣れていることの別名なのだ。
天真爛漫なリラなどに比べては、人の手で泥塗りをした人形と、造化の神が作ったむき出しの美術ほどの違いは確かにある。泥塗りをした人形は泥のために尊ばれて社会の上に贅沢を尽くして世を送り、かえってリラのような者は朝から晩まで脂汗の乾く暇もなく労働者の妻となり、うまやのような煙で黒ずんだ家に寝起きし、贅沢をする事のなんたるかも知らずに惜しむべき生涯を費やし終わる。
思えば社会風俗と言えるものは、造化の神の美術を妨げるため、悪魔が作った金網ではないのか。私は悪魔というものが有ることを信じてはいなかったが、今は信じないわけにはいかない。人はでんでん太鼓を手に持つときから棺の底を足で踏むまで、悪魔のおもちゃになっているのだ。
中でも結婚は悪魔が人を馬鹿にする第一の大仕掛けと、私は心の底から深い息を吐きながら、再び見るとリラの姿は既に見えなかった。重い心を足と共に引きずって、ようやくリラが指した所まで登って行くと、イタリヤ第一の絶景は扇のように目の前に開いていたが、私の心は開きもせず、ただ人がいないのを幸いに、とある木の根に腰を下ろし、しぶしぶあのダベン侯爵からの手紙を開き始めた。
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