hanaayame30
椿説 花あやめ
作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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三十 両女(ふたり)の約束
果たしてそう優劣が分かったとすれば、子爵も葉井田夫人も重荷を卸(おろ)した様な気がしなければ成らない。子爵は半ば怪しみつつ、
『兎も角も、我々三人の中で、一人でも意見の定まった人が出来たのは有難いねえ、葉井田夫人。』
葉井田夫人『そうですとも。』
瓜首は力を得て、
『一方は農夫の健康を第一に置き、農夫の為には景色の美は捨てなければ成らぬと云い、一方は農夫の健康よりも、景色が大事だと云うのでしょう。成るほど、画家か詩人ならば、その意見が最もですけれど、先祖以来の大責任を引き受ける蔵戸家の相続人としては、農夫の健康を重んずると云う、着実な意見が何よりも大切です。私は実に草村松子嬢の考えの確かなのに敬服しました。』
葉井田夫人は無言で首を垂れた。子爵も一言の返事も無い。唯だ考えるのみである。良(やや)あって子爵、
『けれど春川梅子といえども、農夫の健康を顧みないと云う訳では無い。木陰谷の農夫等が、それほど健康を損じて居ると知らないのだ。』
瓜首『知れば松子と同様の意見を、唱(とな)えるかも分かりませんが、知らない丈劣るでは有りませんか。
景色を見ても農夫の健康と云う事へ先に気が附くのと、景色の美にのみ心を奪われるのと、即ち其所(そこ)に、領主たる責任に適すると適せぬとの別が明らかではありませんか。』
成るほどそうだ。併し子爵は未だ何だか賛成する事が出来ない所がある。
『ですが梅子も仲々責任を重ずる気質ですよ。全(まる)で絵の事より外に、心の向か無い、云わば不具(かたわ)の様な父に仕え、アノ年齢(としは)の行かない身体で、兎も角一家を治めて居たのだから、責任に耐えると云う事は、認めて遣らなければ成りません。』
瓜首『父と雇人一人と合わせて三人の家を治めるのと、五百戸以上の小作人の有る大領地を治めるのとは、余ほど責任の質が違います。大領地は、何よりも先に、民の疾苦に気の附く人で無ければ。』
実に動かす可(べ)からざる論理だ。
又も子爵は考え込んだ。もう異存のの種が尽きたのかも知れない。そうして終りに云った。
『けれども、昨日貴方の説で、二人へ実際の位置を言い聞かせ、競争と云う事を承知させた上で、試験すると云う事に相談が極まったでは有りませんか。私はアノ相談を確守します。二人に良く言い含め、それで本当に優劣が現われる迄、決定を延ばします。』
もう異存を云わない様に、屹(きっ)ぱりと言い切ったので、瓜首も黙してしまった。此の相談に初めから首を垂れたのみで、終りまで何にも云わずにしまったのは葉井田夫人である。
翌朝、朝食が済むや否や、子爵は、
『大切な用事が有るから。』
と切り出し、葉井田、草村両夫人及び梅子、松子、瓜首を書斎に招き、そうして松子、梅子に言い渡した。その言葉は丁寧で有った。綿密で有った。
太郎次郎の死んだ事から、当家を相続する者が梅子、松子の外に無い事。そうして二人の中一人を、相続者に見立てる為に、此の家へ招いた事、又此の後の模様で、何方に定まろうとも、互いに怨みに思いなどしては成らないとの事を、本当に噛んで哺(ふく)める様で有った。
勿論その言葉は熱誠に出ていて、目には涙も浮かんで居たから、二人とも、深く感動して聞いたが、聞き終わって、先ず梅子が口を開いた。
『私は相続人に成らなくても、是ほど当家の近い親類の様に見て戴く丈で沢山です。何だか荒夜物語にでも在る様な話ですねえ。』
松子も深く感じて直ぐには言葉も出なかったが、終に、
『何うか私は、何方へ成っても、当家の親類と云う事に恥じない様に致し度いと思います。』
何方が立派な返事だろう。瓜首は流石に松子の方に確かな所があると感じた。
此の相談が終わって一同此が部屋を立つ時に、草村夫人だけは、蹌踉(よろめ)いて殆ど歩くことが出来なかった。梅子松子は毎(いつ)もの様に仲好しげに一緒に退いたが、云い合わせた様に又一緒に庭に出た。梅子は少し呆れた様に、
『先ア貴方と私とは、知らずに大変な競争をして居たのですねえ。』
松子『そうです。知って見ると何だか極まりが悪い様では有りませんか。』
是が世間の娘達なら、唯だ極まりが悪い丈では済まない。必ず恨(うら)み合い憎み合う事にもなる。
梅子『貴女が当家の主人に成っても、何うか今の通りに私を可愛がって下さいな。私は長く親類で此の家に出入りして居たいと思いますから。』
早や松子が当選する者と思い詰めて居るらしい。
松子『アレ貴女は当家の跡取りに成り度くは無いのですか。』
梅子『成り度いですとも、けれど貴女が年上だし、私より学問も有って賢いですもの、貴女に極まって居るのですわ。』
松子『極まって居るなら、何で今の様に言い渡しが有りますものか。貴女の方が私よりも深く可愛がられて居るのですよ。』
互いに譲り合う様な言葉の中にも、幾等か自分がは自分が負けはしないかとの心配が有るのかも知れない。心配の有る丈け闘争の心が起こっては居るのだ。清浄無垢の娘二人を此の様な地に立たせるとは、全く惨(むご)たらしい様な気もせられる。
梅子『貴女がお当たり成さっても、私は少しも悪い気持ちなどは起こしません。』
松子『それは私もです。ここで互いに約束を極めて置きましょう。何方と極まっても、心持を悪くしないと云う事に。』
梅子『ハイ、約束には及びませんけれど、約束して置きましょう。私は決して貴女の幸いを嫉(ねた)みません。』
松子『私も決して貴女の幸いを嫉みません。』
言葉を交わし終わる折しも、
『松子、松子』
と家の窓の所から呼び立てのは、母なる草村夫人である。
夫人は漸く心も落ち着いたのだから、早く松子を呼んで、何か是からの心得を、言い聞かせなければ気が済まないものだと見える。
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