巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hanaayame38

         椿説 花あやめ  
   

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

since 2022.8. 11

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         三十八 御当家の為に萬歳 

 『阿母(おっか)さん、阿母さん。』
と松子は、気絶した母夫人を抱き起こし、
 『何ですねえ。見っとも無いでは有りませんか。』
と殆ど矯(たしな)める様に言い足した。草村夫人は目を醒ました。

 松子『何うか確(しっか)りして下さい。葉井田夫人でもお出でに成れば何うします。』
 真に母御は力の尽きた様である。

 『何と云われても仕方が無い。私の今までの心配を察してお呉れ。アア余り安心して、嬉しくて、私は力も何も無くなりました。』
云いつつヤッと起き直り、すっかり感心した様に松子を頭から足の先まで見上げ見下ろし、
 『オオ、何うしても和女(そなた)は貴族の家の主人と為る様に生まれて居る。私は以前からそう思って居た。』

 松子は嬉しくも有るけれど、全く極まりが悪い。
 『何故先あ貴女は人に聞かれて恥ずかしい様な事ばかり仰有るのでしょう。私に極まったと云っても、未だ何うなるか分かりはしません。子爵も葉井田夫人も、私しよりも梅子さんの方を可愛がって居らっしゃる事は、良く分かって居ますもの。』

 母夫人『イイエいけません。梅子は決して和女(そなた)ほど賢くは無いのです。賢い様に見えても、必ず尻尾を出す時が有るだろうと私は思って居ました。ハイ屹度(きっと)尻尾を出したのです。そうで無ければ、葉井田夫人までが和女の方へ賛成する筈は有りません。』

 松子も考えれば考える丈け、嬉しさが満ちて来ると見え、やがて母の傍に座っても居られない様に立上がり、
 『私しは、此の様な事で胸騒ぎなどはしないだろうと、日頃から思って居ましたのに、何だか、動悸が打って参りました。』

 真に日頃の落ち着いた様子とは違って居る。
 母夫人『動悸ぐらいは幾等打っても好い。本当に仕合わせだよ。本当に運が好いよ。』
 全く此の夫人は、今まで人の二倍も三倍も、様々の事を目論んだけれど、皆失敗に終わって来た。

 総て自分の遣り方の悪いのが失敗の原因だけれど、自分ではそうは思わず、全く運が悪い、世間が悪い、相手が悪いと、此の様にのみ思い、人を恨んで居たのだが、今度ばかりは、最初は自分の目論見から出た事では無かったが、自分の思ったたよりも旨く運んだ。

 『アア善人には何うしても善の報いが来るのですよ。』
 是でも善人だと思って居る。松子は胸を鎮めつつ、
 『ホンに梅子さんは何うしたでしょう。』

 夫人『イイエ梅子は決して蔵戸家の相続人に成られる身では有りません。女で子爵の位を得るとは、和女(そなた)の様な良く出来た婦人で無ければ、え、梅子は未だ子供じゃ無いか。

 是れでもう和女(そなた)とは一段も二段も位が違った。並んだとしても、友達の様には見えはしません。今日からは主人とお供の様な者です。アア是と云うのも全く私が和女を良く育てて置いた為だ。アア萬事に気を附けて育て上げたお陰だ。親の有難さが初めて分かっただろう。ねえ松子、私を粗末に思っては成らないよ。』
言い度い熱を吹いて居る。
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 翌日の晩である。虎池大佐、丸亀男爵を初め、日頃当家と懇意にする五、六の紳士が晩餐に招かれた。是は松子が養女に極まった事を取り敢えず披露する為である。松子はもう草村夫人の子では無い。蔵戸子爵の娘である。未来の蔵戸家の女主人である。

 今朝から早や子爵に娘同様に扱われ、一家の者から見ても、もう主人と云う位に登って居る。全く草村夫人の云った通りだ。何も自分で主人と為った積りで無くても、傍の者がそうするのだ。

 客一同の揃って居る所へ、子爵に手を引かれて出て来た。何う見ても姫君の位である。着物もそう華美(はで)では無いけれど、前もって子爵の手許に用意して置いたので、飾り物は昔から当家の宝物の一つに数えられる夜光珠(ダイヤモンド)が襟の真ん中から垂れて、胸に星の様に輝いて居る。

 誰が幾等羨(うらや)んでも、此の高貴な身姿(みなり)は子爵家の姫君で無くては出来ない。
 誰よりも惚れ惚れと松子の姿を見て居るのは母夫人である。松子の姿を見ては、チョイチョイと外の人の顔を見る。実に嬉しさの極点と云う者であろう。

 子爵と松子とが然るべき場所まで進んで出ると、直ぐに立ったのが瓜首である。彼は客一同へ対し、言葉短かに演説した。単に当家の相続人が極まりましたと云う披露だけである。

 続いて子爵から一同への挨拶も有った。松子も子爵の目配せに従って客一同へ礼をした。礼とは唯だ首を垂れて辞儀をする許(ばか)りだけれど、自ずから品格が備わって、如何にも蔵戸家の名誉に似合わしい、立派な相続人であると誰からも思われた。

 是が済むと一同は、代わる代わる松子と子爵の前に出て、歓びを述べなければ成らない。誰よりも先に立って走せ寄ったのが梅子である。梅子は嬉しさに我慢が出来ない様に松子の手を取り、
 『松子さん、お目出とう。』
と云った。

 その声にも、その様子にも、少しも嫉(ねた)み羨(うらや)む様は無い。そうして松子の顔を見上げ、
 『貴女は立派な方に生まれ附いて居らっしゃるのですよ。私は羨むまいとと思っても羨ましくなりました。』
と云って笑った。

 此の様な清い無邪気な言葉が、外の人には真似も出来ない。真誠(まこと)に清浄無垢である。客一同の目には、絞る様に涙が浮かんだ。葉井田夫人は俄漫が出来なくて退いた。子爵さえも何だか身体が震える様に見えた。

 梅子は何の事とも知らないが、一同の様子が妙に変わった事に心附き、若しや自分の言葉に粗相でも有ったのかと、葉井田夫人の方を見たが、夫人は居ない。止むを得ず、松子の母の傍に走り、
 『私は何にも悪い事を云ったのでは有りませんよ。』
と断る様に云った。

 此まま置いては肝心の子爵が泣き出すかも知れない。瓜首が直ぐに気を利かせて、
 『諸君、御当家の為に萬歳を唱えましょう。』



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