巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

musume13

嬢一代   (明文館書店刊より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2013.7.15

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               十三

 夫の後を尾行(つけ)て行って、その振る舞いを探ろうとは、女の身には有ってはならない行為ではあるが、イリーンにとって今の場合は唯この外に手段(てだて)が無く、我が心にある疑いを晴らす為には、止むを得ない事と言うべきだろう。

 この様なことがあっても、この次春人が来た時も、イリーンはその疑いを顔にも言葉にも現さず、自分が彼の相乗りを見たなどとは更に知らさず、毎(いつも)の通りもてなしたが、春人は一夜を此処に明かし、翌日の午後三時半に馬に乗って、ロンドンへ出て行ったので、その後にイリーンはそこそこに仕度を調え、なるべく人目に立たない様最も地味な服を着け、外套に我が体を包み込み、四時発の汽車に乗り、ロンドンに向かった。

 ロンドンで西富子爵の邸といえば、ハイド公園に面した一構えにして、私人の宅とは思われない程立派なので、どの辻馬車の御者に聞いいても、殆どこれを知らない者は無く、イリーンは宵のうちから、その門前の人目に触れない辺(ほとり)に佇(たたず)み、出入りの人にだけ目を注いで居ると、やがて八時とも覚しき頃、一輌の馬車が出て来た。その戸を開いて控えるのは、是より主人を乗せていずれにか行こうとするものらしく、間もなくその傍らに現れて、静かに是に乗り、
 「是蘭(ゼランド)邸まで急げ」
と命じたのは、擬(まが)いも無い我が夫である。是蘭(ゼランド)邸はモント・ゼームス公園の辺にあり、イリーンはこれを知らなかったが、既にその名を聞いたので、馬車を頼んで後から追って行っても遅くはないと、先ず春人(ハルンド)の馬車を遣り過ごし、その後で辻馬車の屯所(たむろしょ)に行き、御者に聞くと、
 「知っています。私が参りましょう。」
と進み出る者があったので、直ぐに乗って走らせると、暫くして御者は、

 「ここです。」
と言い、西富邸にも劣らない程立派な屋敷の門前に停まったので、イリーンは先ず様子を見ると、夫春人の乗って来た馬車もまだ一方に控えて居たので、さては彼、今邸内に居る李羅子とやら言う令嬢と、何か話でもして居るのだろう。入って行って密かに様子を伺いたいけれど、まさかその様な事も出来ないので、如何しようかと、思案も未だ定まらないうちに、早や玄関から誰やら出て来ると見え、僕(しもべ)らしい者が現れたので、見咎められては成らないと思い、自分の馬車を物陰に潜(ひそ)ませながら、猶(なお)も玄関の方を見て居ると、間もなく此処に出て来たのは、我が夫春人のその手にすがって、なよなよと歩み来る一美人、是が令嬢李羅子に違いない。

 先きに春人と相乗りしていたその女である。イリーンは薄暗い所で、我が頬の熱くなるのを覚えたけれど、今更驚くことも無く、心を鎮めて待つ中に、春人は美人を助けて恭しく己と共に馬車に乗せ、御者に何事をか囁くと同時に、その馬車は早や門外に走り出て、イリーンの立つ前を通り過ぎた。彼ら二人は何処に行くのだろう。まさか此の夜中に、当ても無い運動では無いだろうと怪しむ様子を、事の慣れた御者は見て取り、

 「密かに今の馬車の後を尾(つ)けましょうか。」
と問う。
 アア御者にまで我がはしたない振る舞いを見破られたかと思うと、益々顔が赤らんだが、その外に工夫が無いので、 
 「そうしてお呉れ。」
と小声に命じ、直ちに追い掛始めたが、向こうの馬車は早や半町ほど先に在る。右に左に大道を経曲(へめぐ)るうち、その影を見失ったが、御者は少しも怯(ひる)む色はなく、

 「ナニ、道順で見当は分かっています。クイン劇場へ行ったのです。」
 さては我が身が願っても連れ行かなかった劇場へ、彼の令嬢を連れ行ったのかなどと、忙しい中にも気を廻しながら、走るが儘(まま)に任せて置くと、やがて馬車は白い息を吹く馬と共に、クイン劇場の入り口に停(とどま)った。

 此処で通例の人ならば、殆ど肝を潰すほどの高い賃金を払い渡して馬車を返し、イリーンは劇場の入り口に進んで行くと、その雑踏は言い様も無いほどで、如何にして漕ぎ分けるかも分らない程だったが、兎に角後部の方の一席を買い、これに座すると、満場一目に見渡せることだけは知れるので、漸く思う席を買い、覆面(ベール)を深く垂れて、我が身が誰とも分からぬ様にして、無事に入り込みは入り込んだが、しばらくは唯逆上(のぼ)せて眼が眩(くら)み、何が何やら見分けることが出来なかった。

 これではならないと心を落ち着け、光輝く満場を見渡すと、向こうの方にある第一等の桟敷に、皇族の席と隣あって我が夫春人が彼の美人と座しているのを見た。イリーンは忽ち胸轟き総身の震えるのを覚えたが、猶(なお)もその方を眺めると、春人は日頃よりも立派にして、さながら国王かとも疑われ、その傍に列なるかの美人は、衣服の着付けより、身の回りの飾り物、総て満場を圧倒するばかりにして、幾千の観客は皆その方に奪われ、殆ど舞台をも忘れたようであった。



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