nonohana56
野の花(前篇)
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ミセス・トーマス・ハーデー著 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
野の花
五十六 「今でこそ荒屋(あばらや)」
夏も早や末頃のある日、セプトンという所の或小村の宿屋に河田夫人と名乗る女客が着いて、宿の主人に様々な事を頼み込んだ。
都会の宿屋では、なかなか主人が客の事実話しに耳を傾けたりはしないが、田舎の宿屋はそうではない。不行き届きではあるが親切だ。ここが、田舎の素朴さという所だろう。
客を気の毒と思う場合は、損得にかかわらず、実意を尽くす事もある。
特にその女客の様子が、いかにも哀れそうに見えて、主人よりも先ずその妻がこれに同情を寄せた。
「本当にどうかしてあげたいねえ。」
とは妻が主人の顔を見つめて言った言葉である。
けれど、河田夫人の頼みは、決して物もらいが人の哀れみを乞うような頼みではない。ただ、その身の今の境涯をうち明けて、何か然るべき職業は無いだろうかと相談したのである、
夫人の言葉によると、最近、夫をも家をも失い、知己も親戚も職業も財産も無い身の上だが、健康の為にこの片田舎に住まなければならない。この辺に然るべき貸し家は無いだろうか。また、そこに住んだ上で、暮らしを立てて行くような賃仕事は無いだろうか。今はわずかながら、微禄の中で身の回りなど売り払って残した金が50ポンドほどあるので、これが、無くならない中に身を定めたい。裁縫針仕事も一通り出来れば、男女の子供に躾けや教育を施す位の事も出来ると言うのであった。
主人が考えている間に、妻は茶を出した。夫人は茶を飲むために、初めてベールを上げたが、その顔は、真に天の使いであろうかと疑われるような慈悲の相が有って、それに深い心配事でも持っているような様子は、どうしてこの頼みを断ることが出来るものかと、夫婦に同じように思わせるほどだった。
妻は又進み出て、
「丁度幸いでは有りませんか。隣村には小学校が有るけれど、この村にはそのようなところがないから、何か一つ、子供を教育する所があっても良いと牧師さんが言っていました。家も多分、村はずれのソレ、地主の隠居所が久しく空いて居ますから、、この家から持ち主に頼めば、安く貸してくれるでしょう。」
「アア、地主のお祖父(じい)さんが死んで以来、住み手も借り手も無くて、アノ通り雨ざらしになっているから、貸してくれるが」
「十ポンドも掛けて少し手入れをすれば、今でこそあばら家でも、十分住むことは出来ますよ。」
「住むことは出来るけれど、女一人では夜など寂しくてさ」
無言で夫婦の言葉を聞いていた河田夫人、
「寂しいのは幾ら寂しくても構いません。」
と言い切った。かえって寂しいところが望みだと言うほどの口調だった。
「イヤ、寂しいのがお嫌でなければ。」
と言って、直ぐに話が決まり、これから主人の骨折りでその隠居所と言うのを借り受けて、そしてこの夫人が、自分で指図して、少しばかりのリフォームなどを施したが、誰も人の尋ねる所ではないけれど、元が物持ちの隠居所だったので、少しの庭もあり、眺めも良く、案外住み良い家とはなった。
学校と言う看板は掛けないけれど、宿屋の主人夫婦が触れ回った為、言い伝い聞き伝いて少しずつ生徒が出来た。それに連れて益々村人に良く分かったのは、この河田夫人の身持ちの正しくて行いの親切なことなどだった。
真にこの夫人は自分の身を直ちに子供の手本にする積もりと見え、何から何まで良く行き届いて、そして教えの余暇には貧民や病人の家を見舞い、慰めてもやり、介抱も尽くしてやる。しばらくするうちに一村の人が、天からこの村に慈悲を振りまくために、この夫人を下したかとまで噂する事となった。
教えられる子供などは全くこの夫人を、自分の母親のように思って懐かしがる。とは言え狭い土地だから、月謝で生計を支えるという程のことは出来ない。五十ポンドの蓄えも残り少なくなったろうと思われる頃、この近在で最も尊敬を受けている石田という宣教師が、この夫人の振る舞いに感心し、教会堂に集まる人々から多少の義金を集めて、月々幾らづつか補助してくれる事になって、河田夫人の身は先ず定まった。
一々この夫人の徳を書き立てれば数限りもない。ただ、その一端を記せば、病気の人はこの婦人の親切な手から介抱受ければ病苦を忘れると言い、死んで行く人は、死に際にこの夫人に慰められると必ず天国に行かれると言うほどになった。けれど、夫人が貧者、病者の家に行くための外は、決して外出する事をしない。時々は石田宣教師夫婦から晩餐に招かれる事などもあるけれど、一度も応じない。
中には何を楽しみに、この夫人が、まだ若いのに、この村に隠れ、静かに世を送るのかと怪しむ人も無いではなかった。けれどこの夫人は、楽しみとか苦しみとかいう、浮き世の人の心持ちを自分は通り過ぎたつもりで居た。
このようにして、一年、又一年と、月日の車は音もせずに回って行った。