nonohana60
野の花(前篇)
トーマス・ハーデー著 黒岩涙香 訳 トシ口語訳
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ミセス・トーマス・ハーデー著 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
野の花
六十 「理の無い所へ理をすげて」
兎に角も品子は多年の目的を達したのだ。子爵夫人と呼ばれる身となり、瀬水城の主婦人という地位を占めた。
この地位を占めようとして、長年人知れず心を悩ませたその苦労、心労を推察してみれば真に大願成就というもので、全くうれしいに違いない。
この大願のために、有るだけの知恵を絞って先妻澄子をいじめもした。冽や母御の機嫌も取った。離間中傷(りかんちゅうしょう)などという女にあるまじき陰謀も企てた。こうすれば澄子が困るか、ああすれば冽が澄子に愛想を尽かすかと、様々に考えて寝ずに明かした夜も度々だった。
イヤ、澄子がこの家に来て以来、少しも嫉妬の念を燃やさずに安楽に眠った夜とてほとんど無いほどである。その苦労がようやく届いて終に澄子を追い出して、自分がその後釜に着いたのだもの、これがうれしく無いと言えばうそである。けれど、人間の欲には限りが無い。一つ願いが届けば又その上を望むことになる。
婚礼の当座は、別に気が付かなかったが、うれしさが身になれて段々平気になるに連れ、何時とはなしに気がつき始めたのは、冽が自分に対し、どうも愛情が足りないように見えるとの一条である。
決して冽は意地悪でもない。不親切でもない。けれど、昔澄子を妻にしていた時とは大変な違いである。その頃は、全く可愛さが満ち満ちているようで、澄子の一挙一動に種々心配する様子が見え、よしや多少の行き違いや思い違いのために、互いに面白くない様子が見える場合でも、充分に同情が通っていて、冽の心は澄子のために引き立ちもし、澄子の為に沈みもする有り様であった。
真に誰が見てもうらやましいところが見えた。然るに今はどうである、自分を大事にしてはくれるが、可愛いと思う様子は見えない。ただ何もかも儀礼的である。夫婦の関係を作っているだけである。自分を別に叱りもしない代わりに、笑顔を見せたことはほとんど無い。まして面白そうに、はたまたうれしそうに冗談など言って、自分をからかったり、機嫌をと取ったり、或いは戯れたりすることは微塵(みじん)もない。
品子はこれが悔しくなって、何ゆえ澄子にに戯れるように自分には戯れないのだろう。なにゆえ、前の妻に向かっては心の底まで打ち明けて、隔てなく交わったものが、後の妻には、何となく心の底の開きかねるようなところがあるのだろう。こう思うと悔しさはいつの間にか嫉妬となり、死んだ澄子がねたましい。
実に心のねじけた女は、永く嫉妬と言うことを忘れていることは出来ないと見える。澄子が生きている間に、嫉妬の念を燃やしたのは勿論であるが、今はその時より嫉妬がひどい。そのときは澄子の方が本当の妻だから、夫たる者が、その妻を愛するのを、傍から嫉妬するのは、どちらかと言えば無理な話であるが、今は自分の方が妻である。
妻であるから本当に嫉妬するのは当然である。妬(ねた)まず嫉(そね)まずには居られないわけだなどと、ほとんど、道理の無い所に道理を継ぎ足しているように見える。
けれど、実は無理なことで、冽は有るだけの愛情を澄子に尽くしてしまい、澄子が死んだと思ってからは、自分の愛情も枯れてしまって、再び同じ澄子が世に現れて来れば分からないが、そうでもない限りは誰に向かっても、その頃のような愛情を発することは到底出来ない。
ただ変わらないのは澄子の形見とも言うべき、息子良彦への愛ばかりだ。そのほかは心が段々と枯れて味気なくなり、てんで愛したいという念が起こってこない。もっとも澄子の生前に於いてこそ、互いにわがままから、一方なら無いせめぎあいもしたが、今では、思い出すのはその愛らしさと、死に際の無残な有様との二つで、これを思い出せば思い出すに従って、いよいよ他のものへの情愛が萎縮するのだ。
品子はそれを知らないではない。また、もっともと思わない無いわけではない。けれども、知るにつけ、もっともと思うに付け、なおさらねたましいのだ。自分の方がもし先に妻となったなら、アノ通り愛せられるはずであるのに、何で自分が後になったのか、全く澄子が横合いから自分の先を越したためだ。
何につけても妬まずには居られない。妬むにつけては総て澄子の手に触れた品物などが目障りだ。澄子の読んだ書物を見ても癪に障る。澄子の着た衣類などは、智謀に富んだ心を以って様々な口実を付けて、大抵焼き捨ててしまった。澄子の写真などは切り裂いたか噛んで捨てたか、一枚も無い。
この通り品物にまで当たるほどなので、良彦を憎むことはたとえ様も無いほどだ。
「私は子供が大好きで、取り分け良彦などは我が子のように思います。」
と言った言葉は、今でも冽の前や人の前では繰り返して言っているが、人の居ない時は大違いだ。
これが澄子の産んだ子だと思い、澄子に加えた冽の愛が今はこの子に移っていると思えば、ちょうど澄子をいじめたように、当人より外に分からないように非常に巧妙に、ほとんど芸術的にいじめるのだ。