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野の花(前篇)

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「野の花」の舞台


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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳 トシ口語訳

野の花

           三 「天然の美の中心」

 このことがあって二年の後、中尉瀬水冽(たけし)は年齢が満二十五才になった。二十五才になれば亡き父の後を継ぎ、家務の当主となることが以前から決まっていたので、長官などには深く憎まれたけれど、辞職して、国に帰り、中尉とは呼ばれずして、子爵と呼ばれる身分となった。

 子爵の胸にはまだ陶村時之介の死に際の頼みが気になっている。一通りの用事を片付けた後、保養や漫遊などをも兼ねて時之介の郷里レスタシア地方へ行った。この地方は木も有り、牧場も有り、極めて野趣に富んだところで、インドの熱帯に晒された身には生まれ替わった思いがする。

 特に時之介の父の家は宇治部と言う小さな市から入り込んだ樫林という郷でこの地方の最も静かな、また最も景色の良い所、いわば一個の仙境である。先ず、宇治部の市に宿を定め、一休みして、樫林郷へ行くと、幾千年を経た樫の木の間を瀬の早い清い谷川が悠々と流れているなど、絵の中を歩く心地がした。

 何度か足を止め、「ああ、このような所こそ、時之介のような英雄児が生まれるのだ。天然の美の中心とも称すべきだ。」などとつぶやいた。

 やがて、目指す家には、着いたが、その構えも狭くない。豊かには見えるが、どことなく質朴な風が現れていた。家庭の清く正しさ、楽しさも思いやられる。このような所に住めば、生涯腹の立つことも無いだろう。人も仲睦まじくならずにはおられず、善人とならずにいられない訳と早くも、腹の底まで洗い清められた心地がして、何か懐かしいともなくただ懐かしい。

 静かに門を入り、玄関に訪問すると、腰の曲がった老僕が取り次いで、主人は町から間もなく帰る時間だと言うことで、清楚な客室に通された。部屋の様子も、良く外の様子と調和している。

 間もなく鷹揚(おうよう)な足音が聞こえるのは確かに主人が帰ったもので、そのうちにこの部屋に入って来た。年は五十前後か、背は高くて少し痩(や)せているけれど、一目見て「紳士」の名に背かない紳士と分かる。

 社交界で生きる世辞の上手な紳士とは違い、天然に作られた紳士、誰の目にも自ずから敬愛の念が起こる。ただ顔のどこかに少し、悲しそうな所が見えるのは、一人息子を失った悲しみが、まだ失せないためでもあろう。どうしても、田舎に住む人は、気が紛れる事が少ないから、喜びも、悲しみも長い訳だ。

 単に初対面の挨拶が済むと、子爵瀬水冽は言葉を改め、「私はインドで戦死したご子息の臨終の頼みによって来たのですが。」と言いかけると、父は驚き、「アア、憐れむべき時之介の、いや、少しお待ちください。彼のこととならば少し心を取り鎮めませんと」と、言いしばしうつむいて顔を隠した様は、早や、両眼に湧き出す涙を押し戻すためでもあろう。
 
 少し経て顔を上げたが、自分では落ち着いたつもりであろうがまだ声は震えている。「はい、彼の死は、ほとんどこの父を殺しました。」一言で尽くしている。「彼のお話ならば、彼の妹をも呼んで聞かせましょう。」と言って、立て戸の所に行き、「澄子を呼んでおくれ。」とさほど高くない声で、誰にか命じて、そして元の席に還った。

 澄子とは名前からして時之介の妹らしいと、子爵はつまらないことにまで感心した。
 しばらくすると子爵の後ろで、そっと戸が開く音がした。きっと十二、三か四、五のまだいたずら盛りを出て間もない小娘だろうと子爵はこう思って、ほとんど、何気なく振り向いた。

 真に意外の思いをせずにはいられない。全く自然の美の中心であるこの土地に、美そのものが化身して人間に天下ったとはこの澄子の事だろう。

 美少年と言われた時之介によく似てはいるが、水際離れた美しさというか、遙かに人間の水平より立ち上がっているように見える。
 子爵は早や、自分の座り方が気になった。ちょっと、座り直したが、どうも自分の作法が行き届かないように思われた。

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