nyoyasha32
如夜叉(にょやしゃ)
ボアゴベ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
since 2012. 5.8
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如夜叉 涙香小子訳
第三十二回
天狗ッ鼻の竹二郎が春野兄弟と同じ家に下宿していたとは思いも寄らないことだったが、今日は汚らわしい彼輩(やから)を相手にすべき日ではないので長々はそのまま四階に上がって行き春野が部屋の戸を叩くと中から開いて愛らしい顔を出すのは別人ならぬ鶴子である。彼女は気の毒そうに長々の顔を眺めて、
「オヤ、兄さんから貴方へ葉書を出しましたが未だ其れを見ませんか。」
と問われて長々ハ又美術館行きの日が延びたかと早やくもひどく失望して、
「でハ兄さんがまだご病気ですか。」
(鶴)「病気は直りましたが、今日は銀行に調べ物が出来たと言って今朝急に呼びに来まして。」
(長)「オヤオヤ」
(鶴)「夫で美術館行きはもう一つ次の日曜まで延べるからと言って貴方へ断りの手紙を出しましたのに。ですが折角いらっしゃたからさあお入りなさい。」
(長)「兄さんの留守へ入り込んでは好くないでしょう。」
と口には言えど心には入りたいのは山々なれば鶴子が、
「ナニ構いません。他人じゃなし。」
と普通のお世辞を述べるのを機会(しお)に、
「では少し話して行きましょう。」
と答え宝の山に入る心地でホクホクと喜びながら直ぐに鶴子の部屋に入ると、ここには一脚のテーブルあり、作り花の道具などがその上に並んでいるので、
「オヤ日曜日でもお稼ぎなさるの。」
(鶴)「稼ぎますとも。それに今日は折角貴方と美術館へ行く約束をしたのが外れて残念でなりませんから花でも造れば気が紛れるかと思いこの通り細工に掛っていたのです。まあ腰を下して私が花を造るのを見てお出でなさい。巧みな者ですよ。」
と笑いながら椅子を指差す。
(長)「では拝見しましょう。ナニ花を作るのも美術ですからそれを拝見する方が美術館へ行くより本望です。」
と答えてやおら腰を下すと鶴子は早や鋏、竹箆(たけべら)等の道具を取りその細工を始めたが如何(いか)にも巧みなもので見ているうちに一輪の薔薇の花を作り終わり、
「サア御覧なさい。」
と差し出だす。長々ハ手に取って幾度もその出来を褒め殆(ほとん)ど手放す事が出来ない様子であったが、終(つい)に思い切り是を私が戴いても好いでしょうか。」
(鶴)「好う御座いますとも。貴方に上げる積りで拵(こしら)えたのですもの。大事にしてガラスの箱にでも入れ床の間へ飾ってお置きなさい。」
と言ひ又打ち笑う。
長々ハ真面目で、
「床の間はありませんからボタンの穴へ差し胸へ飾って置きましょう。」
(鶴)本当の花なら格別ですが作り花を胸飾りにしては気違染(じ)みますよ。
(長)「気違染みても構いません。貴方が作ってくれたのだから。」
と言いつつ早や胸の辺りに挿もうとするので鶴子は之を見て噴笑(ふきだ)し、
「貴方は本当にに可笑しい方だ。私が靴屋の女工ででもあれば私の拵(こしら)えた靴を首へぶら下げて歩くでしょう。」
長々ハ言い返す言葉も知らず。暫(しば)しモヤモヤした末にその顔を赤めながら、
「ブラ下げますとも。貴方をこの通り愛していますもの。」
と一生懸命の一言に鶴子も同じくその顔を赤めたが又忽ち笑いに紛らし、
「 アレ又その様な事を仰る。」
長々ハ夢中である。今ハ何も彼も打ち忘れて急(せ)き込みながら、
「言いますとも、貴方が私の妻になってやろうと仰るまでハ幾度でも言いますよ。」
不躾(ぶしつけ)千万な言葉の裏に無量の熱心さが自ずから現れれているので、鶴子も彼の情を憐れむ様子だが、まだその笑いを止めず、
「その様な事を言うと本当に婚礼の申し込みの様に聞こえますよ。」
(長)「聞こえる筈です。申し込みですもの。その様に笑はないで了(いけ)るとか了けないとか早く返事して下さいな。之が了(いけ)れバ私ハ熱心に彫刻を勉強し必ず世界に名を上げます。了なければ死んで仕舞いますよ。
ハイ死んで仕舞いハしませんが張り合いが抜けるから生涯立派な彫刻師にはなれません。食うや食わずの長田長次で終わります。」
と真実に絶望の色を現すので、鶴子は初めて真面目になり、
「もし外の人が兄の留守に来てこの様な事でも言えば私は皆迄聞かないうち追い出しますが、貴方だからこうして聞いているのです。」
(長)それは私も有り難いと思います。
(鶴)イエまだ有り難くも何ともありません。兄に相談した上でなければ私から何とも返事ハ出来ませんから。
(長)でハ兄さんに相談して下さいますか。こいつは有り難い。
(鶴)貴方は本当に気の早い人ですよ。未だ私が兄に相談するとも何とも言わない先に又有り難いなどと。
(長)でも相談下さるのでせう。
(鶴)「イイエそれも貴方の身の上や心の裏など充分に聞き定めたうえでなけれバ何とも返事が出来ません。」
と明らかに言い切ったけれどもその顔色に我が無礼を憤っている色が無いのを見て長々ハ次第に安心し、その声さえも日頃の口軽い調子に返り、
「でハ何のようなことでもお聞きなさい。充分に答えますから。」
(鶴)問えと云って急に問はれるものでもありませんが、貴方は彫刻師として三峯老人の様な有名な人になる心がありますか。
(長)ありますとも、今も言う通り貴方が妻になって呉れさえすれば私ハ大切な妻を決して名もなく家もない長々生の女房だとは云わせてハ置きません。力の限り魂の限り働いて出世し貴方をとき家の奥方と云われる様に仕上げます。
(鶴)仕上げるとて私ハ鑿(のみ)一本で何うでも仕上げの出来る貴方の彫刻物では有りませんよ。
(長)「イエ冗談はさて置いて本当に仕上げます。それにね、貴方が承知さへして下されば私は必死になり必ずアノ茶谷立夫の本性を見破って彼の婚礼を取り消させ亀子を貴方の兄さんと婚礼させる様及ばずながら骨を折ります。ヘイ夫はきっとです。イエ私には分かっていますよ。兄さんがその後三峯老人の家へも来ず、前から行くと云った美術館へも行かないのは全く亀子が茶谷と婚礼すると云うのを聞き失望して張り合いが抜けた為です。兄さんが失望した様子を見ても男を失望させるのが可愛そうだと思うでしょう。貴方の返事一つにより私は兄さんよりももっと失望してしまいます。」
と今迄一言毎に口籠っていたその不器用さに引き換えて、滔滔(とうとう)と弁じて来る。兼ねて兄思いの鶴子なのでこの引き言を聞き益々心が動くようで、
「本当にそうなれば兄も仕合せですけれど、」
と呟いて嘆息し、
「世帯を持つにハ容易ならない資本の要る事をご存知ですか。」
(長)「イヤその御心配には及びません。私は聊(いささ)かながら一万フランの金貨を持っていますから。」
と言うのは鶴子を喜ばそうと思う心に違いない。鶴子は忽ち眉を顰(ひそ)め、
「一万フランと云えば真面目に働く職人が三十年辛抱しても容易には溜らぬ程のお金ですが、それを貴方がどうして持っていますか。」
(長)「之は天が私を哀れんで呉れたとでも云うものでしょう。水曜日の夜に歌牌(かるた)で勝ちました。」
鶴子は痛く毒虫にでも刺されたように愕然と打ち驚き、
「オヤ貴方は博打打ちですか。歌牌(かるた)で勝ったなどという汚らわしい金を以って私と結婚する積りですか。」
と言葉激しく罵(ののし)られ長々は周章狼狽(あわてふため)いて、
「イエその様な訳でハ有りません。決して私が進んで歌牌(かるた)をしたと云うのではなく全く已むを得ずしたのです。」
と言ってあの茶谷立夫の本性を見るため画工(えかき)筆斎に勧められ、止むを得ず手を出した次第を事細かに言い開くと、その言い訳がようやく終わる所へ誰だかわ分らないが入って来る者が居た。 鶴子は入り口の方に振り向き、
「ソレ兄さんが帰って来ましたよ。」
と云う。
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