simanomusume241
島の娘2 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(二百四十一) 余ほどの時間
網守子が居無くなった以上は、世に江南夫妻の悪事を知る者は無いだろうと思われたのに、此の保津老人が有った。実に悪事と云う者は、完全に隠すことが出来ない者と見える。
全体云えば、谷川弁護士が夙(つと)《ずっと前》に知らなければ成らない筈であるのに、谷川は事実の外に何事をも信じない気質で有るが為めに、今まで、只自ら惑うのみで、何事をも知ることが出来なかった。
今は又と無い此の保津老人が、事実を谷川に打ち明けることと為ったので、全く彼等夫妻の悪事を暴露する時が来た。谷川は真に目の醒めた様な心持である。
彼は開いた口も塞(ふさ)がらない程の為体(ていたら)くで、
「オオ、其の様な事で有りましたか。」
と呆れた声を洩らした。
老「ハイ全く其の通りです。」
谷「では、添子が紅宝石(ルビー)を盗んでーーー江南は爾(そ)うと知らずにーーー、地方の旅行から帰って百万長者に成ったなどと喜び、---其の後で添子の自白を聞き、絶望して男泣きに泣いたーーー其れが私へ辞退するなどと言って出た。---オオ分かりました。分かりました。此の様な悪事がーーー此の様な悪人が、世に又と有ろうか。其れで貴方は沈黙(だま)っては居られないと思い、此の通り私へ告げに来たのですね。」
老「爾です。早くから貴方へ申し上げるべきだと思いまして、ツイ延び延びに成って居ましたが。新聞紙で路田梨英の捕縛の事を知った為、若しや此の事に関係が有りはしないかと思い---。」
谷「エ、エ、お待ち成さい。路田梨英が何故此の事に関係が有るのです。」
まだ谷川は此点を理解することが出来ない。保津老人は答えた。
「イイエ、路田と云う人が、毎(何時)も毎(何時)も余り江南に窘(いじ)められて居ますので、若しや此の事も何か江南の身代わりに成ったのでは無いだろうかと思いまして。私は予(かね)てから路田を気の毒と思って居ましたので。」
谷「イヤ路田はもう放免せられました。が路田は何の様に江南に窘(いじ)められて居たのですか。」
老「アア貴方は其れも御存知無いのですね。江南の絵は悉(ことごと)く路田が書くのです。路田の書いたのを、江南が自分の名を書き入れて、自分の画(え)だと云って世の中へ出すのです。」
若し谷川が、驚きの為に気絶する様な気の弱い人ならば、此の時に気絶したであろう。彼は全く椅子から飛び放れ、
「エ、エ、エ。」
と叫び、両手を広げて蹌踉(よろ)めいた。
彼が漸く気を取り鎮めて、元の椅子に復するまでには余程の時間が有った。
彼は叫んだ。
「オオ、是で何も彼も分かった。成るほど江南の絵は路田梨英の筆に違いない。こう何も彼も分かったのは実に嬉しい。」
分かったのは嬉しかろうが、分かった為に、真の紅宝石はもう取返しの附かないことも分かり、到底自分が七十五万円を償わなければ成らないことに決まったことも分かった。
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