simanomusume31
島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(三十一) 江南詩集
「まだ何か言いたい事がありますか。」
と江南は促した。小笛は言い難そうに躊躇しながら、
「雑誌の広告に、今迄の詩を集めて一冊の本に成さったと有りますが。」
江南「そうです。『新芸術』に出たのを集めて出版しました。貴女はその本が欲しいのですね。一冊上げましょう。」
と云い、美しい小冊子を取り出して与えた。表紙には「江南詩集」と題してある。
小笛は直(ただち)に開いて一通り目を通したが、初めから終わりまで自分の詩の外は何も無い。小笛の顔はパッと紅くなり、
「あの是は・・・・、私の詩ばかりですが。」
江南「私が取捨して私が代価を払い、私の名を署して、私の雑誌に載せた上は、私の詩であると、最初から秘密の契約では有りませんか。」
小「そうですけれど、此の様に本に成ってまで、貴方の詩と云うのは、私世間を欺く様な気がしまして、自分で心が咎めます。」
江南「正直に契約を守るのは、正直な人の道です。何も心を咎めることは有りません。」
笛「でも私しは・・・・、何うも此の次に詩集をお出しの時には、柳本小笛の名を出して下さる訳には・・・・。」
江南「アア、貴女は別に原稿料が欲しいのですね。」
笛「そうでは有りません。唯だ名前を出して頂き度いのです。」
「名前が出し度いなら、益々勉強して、傑作をお出しなさい。私が見て、是は当人の名誉になると思う様な傑作ならば、雑誌へも詩集へも、必ず貴女の名を出して上げます。」
小笛は此の言葉を、自分への親切と思い、有難く感じて引き取った。
次に第三の犠牲が入って来た。是は前の二人と全く違う、五十格好の肥(ふと)った立派な貴婦人で、財産も名誉も信用も低く無く、孰(いず)れの社交場へも行き、世話役の様に立ち廻り、孰れの人とも懇意にする、親切な多弁な唐崎夫人と云う方である。夫人は言葉を先に立てて入って来て、
「昨日は詩集を送って下さって有難う。貴方は何うして彼の様な優しい詩が作れますか。若い女の感情が、到底男には分から無いだろうと思われるのに、それが微妙に現れて。尤(もっと)も其所が天才の値打ちですねえ。全く貴方は、底の知れ無いほど多芸ですよ。」
江南「唐崎夫人、近々私は戯曲を作り、世の批評に問う積りです。」
此の夫人に此の様に話して置けば、数日の中に上流社会へ大抵知れ渡る筈である。
唐「エ、戯曲をまでも。アア、貴方ならば、戯曲も必ず見事なのが出来ましょう。けれど蛭田さん、私しの寄稿する小話(しょうわ)だけは、曖(おくび}にも人へ、私が作っていると知らせて下さるなよ。彼(あ}れは、一々上流社会の実話で、私の手帳から出すのです。場所や人物は変えて有りますけれど。」
江南「ハイ、其の秘密が漏れては成ら無いと思い、私自ら自分の名を署してますから、大丈夫です。」
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