巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune104

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2015.2.5

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         捨小舟  後編   涙香小史 訳

              百四

 古松が其の手下と相談したのは、何事であるか知ることは出来ないが、園枝の身の上に就いての事であるのは明らかである。
 それにしても、園枝は今どの様な有様なのだろう。

 あれから園枝は獄舎(ひとや)の病室に入れられて、昏々として病中に徘徊(さまよ)うこと二月程に及んだが、幼い頃から苦労に慣れた身体なので、何処かに人に優れて丈夫な所があると見え、医師から危篤(きとく)と見られる程には至らず、唯非常に疲労して、殆ど起き伏すのも大儀な程となったが、この様な中に在って、唯一つ力の綱とするのは、腹に宿っている小児(こども)である。

 世の人は何とでも言わば言え、是は実に血統正しい常磐男爵の胤にして、今の男爵限りで絶えようとする、常磐家純真の血統を繋(つな)ぎ留た者であるから、この児が生まれて、常磐家を相続するとせざるとに拘わらず、立派な貴公子または貴公女である。我が児として愛し慈しむのに、誰に憚(はばか)る所があるだろうか。

 可愛いい者よ、愛(いと)しの者よと、悲しいうちにも、唯それだけを楽しみとし、今にも我が身が母と呼ばれ、笑ましい顔で抱き縋(すが)られ、何も知らない清い心で、恋慕われる時も来るかと思うと、今まで惜くもなかった一命も、夫(それ)が為に惜しまれて、自ずから身を大事にしていると、三月の後には、病室から出られる程に回復し、それにお腹の赤児は、母の疲労にも似ず、日に日に成長すると覚しく、母の身体に重く感じられるて来る事となった。

 この様にして、病室から元の獄舎に帰り、彼是と思い廻してみると、我が身が捕われて茲(ここ)に在るのは、この後幾年月の永きに及ぶんでも、最早厭(いと)う所では無いが、唯此の児だけは囚室の外で生み落とし度い。後々までも、牢屋で生まれた児よ、監獄で育った者よ、などと言われては、其の子の肩身が狭いばかりか、実に出世の妨げと成る訳なので、それだけは心に掛かるので、我が罪の由来を考へ廻してみると、薄々と記憶に留まるところは、どうやら良人(おっと)男爵を毒殺したと、判事から言い聞かされたことにあるようだ。

 男爵が真に毒の為に死んだとすれば、悲しむべき限りで、我が身は空しく此の獄舎に繋(つな)がれて、安閑と日を送るべきではないが、今はなにを言っても仕方が無い。
 我が身に掛かる疑いは、良人(おっと)殺しの大罪で、容易に放免せられるとは思われないが、だからと云って、我が身に何の覚えもない者を、何時迄も無実に苦しめられる道理が有るだろうか。

 事の詳しい様子は、既に判事から聞いたが、病の為に忘れたのか、はたまた、未だ判事から聞かなかったのか、我が身自ら覚えていないが、男爵を毒殺する者は、彼皮林の外には有るはずは無い。

 先に船長立田を殺したのは、悪人古松の為せる所なのに、我が身が其の罪を負い、今又常磐男爵を毒したのは、悪人皮林の仕業であるのを、我が身が又此の疑いに問われる。世にこの様に無実の重い罪が有るだろうか。

 出て行って、判事に此の次第を言い立て、皮林の罪を告げ知らせよう。そうして我が身の言い開きが立てば、子児(こども)の生まれる前に、放免せられる事が出来るかも知れないと、自ら思って自ら定め、判事に宛(あ)てて、至急取調べを乞う旨の願いを出すと、待ち遠しくも一月を経て、漸(ようや)く呼び出される事となった。

 園枝は身重の身を引き摺(ず)り、再び判事の前に出て、先ず疑いの次第を詳しく聴き取ると、男爵自らは死んだのでは無かった。小部石(コブストン)大佐が其の毒を呑み、死人同様の身に成ったとの事が分った。広い世界に真に唯一人、我が身の清きを信じ、我が身の為に、充分言い開いて遣ろうと言った小部石大佐が、死人同様に成ったとは、是も我が身の不幸にして、世にこれ程までも、不運が重なって来る事があるだろうかと、益々此の世を恨めしい程に思ったが、男爵が無事になお生き存(ながら)えているとは、何となく心強い気もさせられた。

 園枝はこの様な一部始終を聞き知り、麻の如く掻き乱れる我が心を、漸く推し鎮め、彼の皮林育堂の悪事を、事細かに述べ立てたが、判事は無言で聞き終わり、充分に信じることは出来ない面持ちで、

 「貴女の言い開きは、中々微妙に出来て居ます。智慧の細かな女でなければ、到底この様には行きません。が悲しいかな、其の作り方が前のも後のも同一轍です。前には悪事を、行方が知れない古松と云う者に塗り付け、今度は矢張り、居所の分らない皮林と云う者に塗り付けました。」
 園枝は腹立たしそうに、
 「是が有りの儘(まま)ですから、致し方が有りません。貴方方は偽りだと思し召しますか。」

 判「イヤ何れにしても、前の事件が古松の捕らわれるまで、証拠が上がらないのと同じく、今度の事件は、皮林が捕らわれるまで、貴女の言葉に証拠が上がりません。其の皮林の居所は、早速調べさせますが、其の者が捕らわれるまで、お気の毒ながら、貴女は矢張り監獄に留置かれなければなりません。何とか外に言い開き様は有りませんか。」

 園「其の外に何の言い開きがありましょう。」
 判「それでは致し方ありません。」
 此の冷淡な一語に退けられ、園枝は又も空しく獄舎の中に返されたが、思えば思う程、我が身の不幸にして、我が児を監獄の外で生む事は、殆ど望みが無いことになったので、今更の様に落胆し、身を支える力もなく、其の儘(まま)獄舎に打ち伏して、泣き沈んだが、泣き尽して夢に入り、何時間の後にか、忽ち悪夢に魘(うな)されて驚き覚めると、早や物凄く静かな監獄の真夜中であった。

 四面暗々として暗い中に、唯窓の外から来る夜灯の光だけが、残る恨みを照らして青い。園枝は
 「アア、夢であった。」
と発っと息し、
 「おなかの赤児は」
と我が腹を撫でながら起き返ると、此の時窓に洩れる薄明かりに、朦朧と我が枕元に立ち現れる姿があった。これは鬼か、これは幽霊か、

 「園枝、園枝」
と細語(ささや)く様に我が名を呼ぶ声。耳に非常に恐ろしく、しかも聞き覚えがあった。園枝は脳天から、釘を打たれた様に、総身が一時にすくみ込んでしまった。
 知らずこれ何者。


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