sutekobune114
捨小舟 (博文館文庫本より)(転載禁止)
メアリー・エリザベス・ブラッドン作 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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捨小舟 後編 涙香小史 訳
百十四
「アア我が身は何人にか少しづつ毒殺せられつつあるか。」
男爵は余りの驚きに声も出ず、
「エ、エ、遅き毒薬」
殆ど聞き取れないほど微(わず)かに打ち叫び、青い顔をなお一際青くして、椅子の上に沈み込んだが、ややあって、
「その様な事は有りません。誰も私を毒殺する者は有りません。」
と云った。しかしながら博士は返事をせず、唯男爵の心が静まるのを待つのみ。
男「博士、博士、日頃の貴方の診断に少しも過ちのない事は確く信じて居りますが、此の度ばかりはお見立て違いでしょう。」
博士は始めて口を開き、
「ハイ、私もどうか見立て違いで有れば好いがと、自分で様々心配致しましたが、悲しい哉、見立て違いで有りません。ハイ、此の度ばかりは決して見立て違いでは有りません。私の目には明々白々です。今まで医学社会に知られている疾病で、この様な兆候を現す者は一つも有りません。どう診察しても全く毒薬の結果で、即ち貴方は近世の最も進歩した毒薬学者の調整した、最も微妙な毒薬を以って殺され掛けて居るのです。」
毒薬と云う事は、男爵の身には初めてではない。男爵は博士の言葉を信じたくないと欲するが、それは出来ない。
「シテ其の毒薬の性質は分かっていますか。」
博「ハイほぼ推量が出来ないでも有りませんが、詳しくは分りません。唯其の極めて微妙に調合したものと云う丈は、其の毒が貴方の身体に入って働いて居る力の程度で分って居ます。毒殺者は必ず、毎日貴方の傍に接近している者の中に居て、日々僅かに一滴づつ其の毒を、食物又は飲料の中に垂らして、貴方へ勧めて居るのに相違有りません。」
何という恐ろしい事柄ではないか、我が身辺に附き添っている人の中に、我を殺そうとする者があるとは。男爵は心の静まるに従って愈々(いよいよ)恐ろしく、殆ど身を震わせながら、
「然し日々私へ接近する人の中には、決してその様な者は有りませんが。」
博「イエ、なければ此の兆候、此の結果は現われません。貴方は未だ、「ニュー・ゲート・カレンダー」の報告に出て居る毒殺の例を読んだ事は有りませんか。毒殺者は常に其の人の最も信任し、最も安心して居る人に在ります。多年忠僕と思われて居たのが、主人を毒害するのもあり、妻にして其の良人(おっと)を毒殺するのも在ります。」
「妻にして良人を毒殺する。」
との一語に男爵は最も痛、最も切に、園枝の事を思い出し、目を丸くして、呼吸(いき)も世話しく喘(あえ)ぐのみ。
博士は騒がず、
「私の申す迄も無く、貴方は既に其の辺に経験がお有りなさるでしょう。毒殺者がどの様な所に居るか、決して油断は出来ません。」
と云い足した。
是も明らかに園枝の例を引くものなので、男爵は唯一言、
「分りました。」
と言い切って再び無言に沈んだが、此の時忽(たちま)ちにして、男爵の心に針の様に差込んで来るのは、園枝の無罪と云う一念である。
我を毒殺しようと謀る者は、園枝の外に在る事は無いとは、男爵が今迄思い詰めていた所にして、それが為に、園枝を離縁し、獄にまで下したのだ。今に及んでも、又我を毒殺しようとする者が有るとすれば、前の毒害は兎に角も、この度の毒害丈は、勿論園枝でない事は明らかで、之を思えば、真の加害者は、初めから園枝の外に在る。其の時から今に至る迄、引き続き我が信用を得て、我が辺りに附き纏(まと)って居るのに相違ない。
初めは我を一思いに殺そうとし、其の目的が外れた為、今度は手を替え、徐々(そろそろ)と殺す積りに違いない。園枝の外に罪人があるのに、我は厳しく園枝を疑い、既に獄舎にまで投じた今となり、我が過ちを如何にしたらよいのだろうと、男爵は万感胸に集まって、居(い)ても起(たって)も居られない程の有様だったが、漸(ようや)くにして又口を開き、
「貴方は昨年中、私の家に起こった毒害事件を、勿論お聞き及びで有りましょうが、其の時の毒薬の性質をご存知ですか。」
博「ハイ、其の用い残りを分析した結果だけを聞きました。何人が調合したかは知りませんが、何しろ充分の学力ある人が、経験に経験を重ねて、製し上げたものに違いないと、其の微妙な製法に学者社会では舌を巻きました。」
男爵は殆ど恐る恐る、
「今私が一滴づつ飲まされて居ると云う毒薬と、昨年の其の毒薬とは、性質が違って居ましょうか。」
博「ハイ、確かにそうと断言は出来ませんが、私の見た所では、全く同じ毒薬だと思われます。」
さてこそ、さてこそ、昨年我を毒害しようとした者が、今もなお我が身辺に附き纏(まと)って居る。憎さも憎し、我が一生を過(あやま)らせた者、総て其の仕業なりと、男爵は今更の様に心から怒り、博士に向い、
「イヤ、私が其の毒薬使用者を捕え、毒薬の本体を貴方のお目に掛けるのは近日の中に在ります。」
と言い切って立ち去った。
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