sutekobune141
捨小舟 (博文館文庫本より)(転載禁止)
メアリー・エリザベス・ブラッドン作 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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捨小舟 後編 涙香小史 訳
百四十一
牧島侯爵は重鬢先生を引き連れて宿に入り、二階の静かな部屋に伴って行き、先ず之に椅子を与えて、
「先生、先生、二十年も経った今となり、どうして私の娘の行方が分りました。其の娘は何うなりました。何時何処で死にました。」
と言葉急(せ)わしく問い掛けると、重鬢先生は沈み込むほど落ち着いて、
「そう一時にお問いなさっては、どう返事して好いか分りません。どうか私の言葉の終る迄無言(だま)ってお聴き願います。」
侯爵「どうも無言(だま)っていられませんが。」
重「それではお話出来ませんから、貴方の仰(おっしゃ)る丈の事を仰って、お鎮まりなさるまで、私の方が黙って居ましょう。」
と重鬢先生は堅く唇を閉じ合わせ、又一語をも発しようとはしなかった。
之には侯爵は我を折って、
「イヤ貴方に無言(だま)って居られては、私の方でも何も言う事が有りません。先生、では私が黙って居ます。ハイ、貴方の指図を守り、何も口を出しませんから、どうか娘の事をお聞かせ下さい。エ、娘はどうしました。、何時、何所でー、」
と言い掛けて、
「イヤ是さえ問うて悪いなら無言っています。」
と云い、必死の思いでその口を噤(つぐ)んだので、重鬢先生は手提げの中から覚書の書類を徐(おもむ)ろに卓子(テーブル)の上に置いた後で、
「実は行方が分ったと云うものの、未だ多少私にも分らない所が有ります。言わば私の目指す当人が果たして貴方の娘か否か、その素性に就いて未だ少し証拠が欠けて居ます。その証拠は貴方に聞けば分りますから、それだから貴方にお知らせ旁々(かたがた)その証拠と言うべき事を聞き合わせに参ったのです。」
と断って置き、更に
「それでは先ず順を追って申しますが、第一に私が若しやこの婦人では有るまいかと思い始めた発端は、コレこの写真です。一応これを御覧下さい。」
云いながら侯爵の前に置いたのは、これこそ、園枝が娘二葉の行方を尋ねるため、先の日に重鬢先生に渡した、二葉の写真である。
侯爵は一目見ると、先刻フレツタの海浜で廻(めぐ)り逢い、二十年前の我が娘かと怪しみ、今もまだ心に掛かる彼の娘の写真なので、
「是は実に不思議ですよ。私の娘に生き写しですが、私も今日フレツタの海浜に行き」
と言い掛けると、重鬢先生は又制して
「イヤ貴方のお話は、約束通り後で伺う事に致しましょう。貴方がこの写真を二十年前の娘御に生き写しだと仰れば、それで好いのです。私も始めてこの写真を見ました時、何だか見た様な顔だと思いますから、好く考えて見ますと、アア二十年前牧島侯爵から、この娘を捜して呉と頼まれた、その写真の顔だとヤッとの事で思い出しました。それから古い文庫の中から、貴方から預かった昔の写真を取り出して比べますと、多少の違いは有りますが、他人とは思われない程好く似て居ます。
尤(もっと)も他人の空似だろうとは思いましたが、それにしても若しや何かの訳で、血筋を引いて居る事は無いだろうか、血筋でなければ、是ほど似るのは珍しい。或は万が一この子の母が、貴方の奪われたその娘ではないだろうかと、こう思いました。」
侯爵は耐え兼ねた様に、
「エ、この写真が私の娘、そうすると私の孫、アア貴方は好い所へ気がお附なさった。流石です。流石お仕事柄です。」
重「イヤ私から貴方へのお返事を請うまで、暫(しばら)く無言でお待ち下さい。」
侯爵「アア、その約束をツイ忘れた。宜しい無言(だま)っています。ハイ無言って居ます。」
重「イヤ幾等私が仕事がらと言って、ナニ似た人を見る度に、血筋を疑いは致しませんが、唯私はこの子の母の顔を見たのです。勿論年が違いますから、顔は変わって居ますが、親子丈に好く似てい
ます。従って二十年前の貴方の娘御の写真とも似て居るのです。丁度貴方の娘御が、無事に成長して母となれば、この様な顔付きだろうと思われる様な顔付きです。其の上に年も丁度、貴方の娘御が成長したのと同じ年頃です。
侯爵「それが必(きっ)と私の娘で、この子は私の孫ですよ。」
重「まだそうと許(ばか)りは極まりません。」
侯爵「イヤ、極まらない事は有りません。第一ーー」
重「イヤ侯爵、貴方がそう屡々(しばしば)口をお聞きなさってはー」
侯爵「でも黙ってはー」
重「では之で私はお暇に致しましょう。後刻貴方が言い度い丈仰り尽くした頃に又伺いましょう。」
と云い、はや写真その他の書類などを取り片付けようとする。
侯爵は遽(あわただ)しく、
「モシモシ、先生、今度こそ無言っています。」
重「では申しましょうが、私もその様に思ったから、その婦人に直接幾度も尋ねましたが、その婦人は極めて漠然として居るのです。種々参考になる事情は沢山有りますが、法律上で真の娘だと証明する証拠は、揃って居ないのです。」
侯爵「親子は血筋で結ぶ間ですもの、なんで法律の証拠など要りましょう。イヤ大変また失策(しくじ)った。先生、今度こそ無言っています。」
重「兎に角充分な証拠がなくては、親子でも親子とは云われません。特に貴方ほどの大財産が有っては、随分子でない者まで子の様に名乗り度くなります。」
侯爵「子でない者が何うして私に顔が似て、エエ又口が滑り掛けた。」
重「所でその証拠は貴方に聞くより外有りません。その婦人を二十年来育てたのは、古松松三と云う独身の人ですが。」
今度こそ侯爵は一刻も待つ事が出来ず、
「エ、古松と云う者が育てて居た。それでは最も明白です。少しの疑いも有りません。古松松三とは、貴方が目を附けろと云った水夫苫蔵(とまぞう)です。ハイ私の娘を盗んだ其の悪人の苫蔵です。」
重鬢先生も是には少し驚いて、
「何して苫蔵と古松が同じ人だと分ります。」
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