巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune23

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.11.16

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

            二十三

 化学の試験に用いるのは、大抵毒薬だと聞き、永谷は不安そうに四辺(あたり)を見回し、
 「ではこの部屋の空気を吸い込むのは危険だね。」
と云うと、皮林育堂は打ち笑って、

 「ナアニ、今は試験時間では無いから、危険な薬は一品も出して無いよ。空気に毒気を帯びて居る様な時には、入り口の戸に、錠を卸して誰も入って来る事の出来無い様に仕て置くのサ。」
と軽く答え、彼の鉄の仮面をも取り片付け終ったので、永谷は初めて落ち着き、少しも怪しまない事とは成ったけれど、若し永谷にして、もう一寸知恵鋭い男ならば、更に深く疑いを挿(さしはさ)み、単に化学の試験だけの為に、毒薬を取り扱う者ならば、何故育堂が彼の仮面を隠そうとしたのかを怪しまなければならなかった。

 化学者は毒薬を扱う事を恥じず、鉄の仮面を誰に見られても、少しも憚る所は無い。唯化学の外の目的で毒薬を扱う人だけは、他人に知られるのを恐れるのだ。しかし皮林はそこまで深く疑われるのを好まないのか、疑がう暇が無い間に、早くも巧みな口先で永谷の心を他の方に振り向けた。

 「オオ、永谷君、君が来た用向きは大方分かっているよ。伯父常磐男爵の婚礼に驚いて、後の手立てを相談に来たのだろう。」 
 永谷は少しも毒薬の事を思い出さず、
 「ヤア、君の眼力には実に恐れ入る。全くその通りさ。だが君、実際に何うすれば好いだらう。僕は殆ど絶望した。」
と吐息を吐くのに、育堂は少しも騒がず、

 「僕が日頃から気長く待ちたまえと云うのは、ここのことだよ。伯父の婚礼する時を待ち給えと云うのだよ。」
 永「だってもう妻が出来れば、アノ財産は妻に伝わるから、僕の見込みは少しも無い。」

 皮「そうでは無いのサ。本当の運は是から開いて来ると云う事よ。先ず静かに考え給え。君は第一に、伯父の家に出入りだけは許されねばならない。出入りが自由に成った上で、第二に伯父の相続人にも取り立てられると、こう云う順序だ。出入りさえ叶わない中に、財産を手に入れようとしても、そうは了(い)かない。」

 永「それは爾(そう)だ。」
 皮「サア、伯父の婚礼は、君の為に第一の門を開いた様な者で、ここで君が少し巧者に立ち廻れば、是から出入りだけは、許されるのは必然だ。」
 水「巧者とは何う立ち廻るのか。」
 皮「先ず伯父にお喜びの手紙を認めて送り給え。」
 永「フム、喜びの手紙を。その文句は何と書く。」

 皮「『サア、その文句が難しいが、最初に君が昔の放蕩をつくづくと後悔し、伯父を懐かしく思う事を書き、次に実は疾(と)くよりお詫びをしたいと思ったけれど、今お詫びを申し出ては、却(かえ)って財産に眼が呉れて詫び入るのだと、疑われる恐れが有るから、気永く時を待って居た。』

と言う事を書き、次には、
 『この度新聞で拝見すれば新夫人を迎えたそうだが、誠に目出度い。是で常磐家には確かな後取りが出来、最早礼吉がお詫びを申し込んでも、財産を狙う為だなどと疑われる恐れが無い。一刻も早くお詫びをしたい。』

とこう書いて、最後に
 『今まで自分の身の辛かった事、せめては伯父上のお顔だけでも見られる様になれば、どれ程この世が楽しいか知れない。罪は何処までも罪として、伯父、甥の情だけは許して呉れ。』
と斯(こ)う書き給え。」

 滔々(とうとう)と述べ来るその知恵に、永谷は感心し、
 「成程、そう云う具合に書けばーーー。」
 皮「そうサ、伯父の心は屹度弛むよ。殊に君の伯父は気に入った細君を迎え、世の中の事が唯何と無く嬉しくて、心が日頃より十倍広く成って居るから、その所へこの様に言う手紙が行けば、必ず出入りだけは許される。第一に出入りが赦(お)りれば、第二の財産の一条は僕に又工夫がある。」

 永谷は拝まぬばかりに有難がり、
 「イヤ、君の工夫でうまく行けば、お礼は必ず充分する。」
 皮「爾(そう)とも、僕は唯お礼を目的に君を助けて居るのだから、何割と纏(まと)まったお礼を貰わなければだ。けれど、ナニこの辺は追って相談する事として、君は先ず早く帰って、手紙を出し、伯父から何と返事が来るか待ち給え。」

 永谷は心得て分れを告げ、宿に帰って早速今の教えに従い、長々の侘び手紙を認(したた)めて出したが、彼は初めから人を説き落とすには仲々の妙を得た男なので、手紙は思ったよりも旨(うま)く出来、これならばと、その返事ばかりを待って居ると、翌々日に及び、男爵の旅行先から返事が来た。その意は皮林の言葉に違わず、兎に角出入りだけは差し許すと云うのに在った。更に書き添えて、この月末には新夫人と共に、常磐荘園へ帰るので、その時に尋ねて来いと記(しる)してあった。

 永谷は早や事が成就した思いで、再び皮林育堂に逢い、相談すると、育堂は予(か)ねて末の末まで考え定めて有る様に、少しの思案の間も置かずに、
 「是から後は、僕が現場に立ち会って、業(わざ)をしかけなければ了(い)けない。僕も客分として常磐荘園へ入り込み、君と共に男爵の許に暫らく逗留する事にするから、驚かないように。」

 驚くなと言って驚かない訳にはいかない。
 「何うしてその様な事が出来る。」
 皮「ナニ、その工夫は僕の胸に在る。唯君に良く断って置くが、何時男爵の領地内で不意に僕に逢うかも知れないから、その時は、少しも前に打ち合わせも約束も無く、唯久し振りで廻りあった友人の様に仕給え。僕もその通りに仕向けるから。」

 永「好し、分った。」
 皮「君はそれさえ飲み込んで居れば、後は僕の方寸だ。」
 この様に打ち合わせて別れたが、是から又数日を経て、愈々男爵が新夫人と共に蜜月の旅から常磐荘園に帰り着いたことが、新聞にまで出たので、永谷は取る物も取敢えず、常磐荘園を指して行くと、荘園の美しさは今に始まった事では無いが、二年前までは我が物の様に思って、別に立派とも感じなかったが、今他人の物と思って見ると、実に英国第一と云っても恥かしくは無い。

 昔は主人としてここを出で、今は詫びを入れる客分としてここに来る。是を思えば腹立たしさが先に立つけれど、身から出た錆(さ)びは仕方が無い。頓(やが)て玄関から他人行儀に案内を乞い、新夫人が客を引く部屋へと、連れて行かれたので、今更臆する心も無く、開くその戸の内に入ると、立って来て恭(うやうや)しく迎えるのは、新夫人園枝である。

 その顔の美、その姿の優、実に生まれ得ての貴夫人にして、道端で拾い上げた者とは思われない。とりわけ応接振りの穏やかにして、好くその立ち位置に副(かな)っている有様には、永谷は宛(あたか)も眼が眩(くら)んだ様に、呆気に取られて眺めるばかり。


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