sutekobune55
捨小舟 (博文館文庫本より)(転載禁止)
メアリー・エリザベス・ブラッドン作 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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捨小舟 前編 涙香小史 訳
五十五
園枝が悄然《しょんぼり》として立ち去る様子は、実に限り無い絶望の中に、又動かし難い決心を包んで居る。園枝は全く栄華を捨て、かって往来で、男爵に拾い上げられた、其の頃の寄る辺無い境遇に立ち返ろうとしているのだ。唯だ男爵は、総て園枝を偽り者とばかり思って居るので、この様な悄然(しょうぜん)《しょんぼりした》たる有様までも、我が身を感動させようとするため為に、殊更ら粧(よそお)っている者とばかり思い、口の中で、
「何所まで人を欺くのに巧みだか底が知れない。自分の素性は僅(わず)かしか打ち明けないが、其の打ち明けた僅かさえも皆嘘に違い無い。己(おれ)が救い上げる前に、何れほど汚らわしい振る舞いをし、何れほど人を欺いたかも知れない。」
とまでに呟(つぶや)いた。
しかしながら、園枝が此の部屋の閾(しきい)を出て、その姿が廊下の外に見えなくなるや、男爵は不意に異様な感じに動かされ、
「待て、待て」
と二声叫んだ。是れは元の本心に立ち返り、園枝を憐れむ為であるか。否、否、唯だ貴族の身分として、仮初(かりそめ)にも、一旦妻とした者を、乞食同様の姿で追い出すのは、不名誉の極度である。
先に甥永谷礼吉を勘当した時ですらも、終身二百円の年金を与え、貧民の群れに陥ること丈は、免れる様に手当てをして言い渡したのだ。園枝にも捨て扶持として、この様な手当てを定め、その上で追い出さなければ、園枝の堕落と難儀とは構わないが、男爵自身の不行き届きと、世に笑われるだろう。立ち去る前に、此の事だけ言い渡さなければならないと、それで二声呼んだものであるが、園枝からは何の返事も無かった。
男爵は聞こえなかったのかと、今度は自ら閾の所に行ったが、園枝の姿は、まだ長い廊下を、彼方へと立ち去りつつ有ったので、又声を高くして、
「コレ、女、立ち去る前に一言言い聞かす事が有る。立ち去らずに俺の指図を待って居よ。後々の手当てを定めて遣るから。」
と云った。
アアこの様な言葉で、一旦決した園枝の心を、動かすに足ると思ったのならば、非常な間違いである。
園枝は此の言葉を耳に入れたのか入れなかったのか、更に同じ静かな足踏みで、徐徐(そろそろ)と廊下を廻り、又もその姿が、男爵の居る所から見えなくなった。
是れは自ら男爵に言った通り、今着ている貴夫人の服を、乞食相当の破れ着物と着換える為め、その部屋に退く者にして、歩み振りの非常に静かにして眼を下の方にのみ落とし注いでいる様子を見れば、其の決心が茲(ここ)に在る事は知られる。
男爵は舌鼓(したうち)し、
「エエ、俺の声を聞かない振りをして、行って仕舞った。」
と云い、腹立しそうに席に戻って、
「けれどナニ、あの様にして俺の未練を待って居るのだ。本当に先(ま)ア、何と云う恐ろしい女だろう。自分の言い開きが出来ない為に、昔の話にでも有る様な、古塔などを持ち出して、ハハハ、古塔で一夜を明かしたと言えば、誰も見た者が無いから、此方(こちら)から問い合わす事も出来ず、爾(そう)では無いと、反対の証言をする人も無いだろうと、旨(うま)く考えて、人を欺くそればかりか、永谷礼吉まで引き合いに出して来て、礼吉が此の財産を狙うから起こった事だなどと、実に呆れた事を言う。
自分の明かりを立てる為に、人に汚名を着せやがる。好し、好し、親身の甥をこの様な悪人の様に言う者が有るのも、結局は彼を勘当して置くからだ。熟々(つくづく)と此の一、二年の我が振る舞いを後悔した。今直ぐに、爾(そう)だ、再び心の動かないうちに、彼の女の名前を俺の遺言状の中から取り退(の)け、直ぐに永谷礼吉を常磐家の相続人に直して仕舞う。」
と云った。
今若し皮林育堂をして男爵の此の独り語を聞かせたならば、男爵の心が、一々我が見込んだ通りに、変わり行くのを見、我が事成れりと舌を吐いて喜ぶことだろう。
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