巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune57

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.12.20

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

                五十七

 永谷は皮林育堂の声に打ち驚き、跳ね退(の)いて、暫(しば)らく旅商人の老いた顔を、つくづくと眺めると、旅商人は何か満足の様子で、
 「オオ、永谷君、君さえも此の旅商人を、皮林育堂と容易に見破ることが出来ない程なら、此の姿で此の屋敷に入っても、誰にも皮林育堂と悟られる気遣いは無い、先(ま)ア安心だ。」
と云った。

 永谷は又一層驚いて、
 「エ、皮林君」
と叫んだが、真に是れ皮林である。彼れ皮林育堂が、この様な旅商人に、其の姿を変えて来た者である。皮林は笑いながら、其の帽子を取り、
 「良く先ア僕の顔を見て呉れ給え。」
と云って、其の前額を撫でたが、見ると彼れ、其の白い顔を、日に焼けた鳶色(とびいろ)に染めて、幾筋と無く皺を描き、手の先に至るまで、非常に萎(しな)びた老人の手の様に作ってある。

 能々(よくよ)く見ると、彼であることは見間違えるはずは無いが、誰でも一目で、此の穢(むさ)くるしい老人の事を、昨日まで常磐(ときわ)家の客室に、賓客の一人として扱われて居た、社交界の人であろうとは、思いもよらないだろう。彼は更に呆れている永谷の顔を眺めて、

 「何も君、夫(それ)ほど驚く事はナイよ。是くらいに姿を変える事は、誰にも出来る事だ。君でも絵の具を買って来て、顔を黒く塗って見給え、皺(しわ)などは描かなくても、又衣服は其の儘(まま)で居ても、見違える様になる。まして日頃と全く違う風をして、見すぼらしく構えて居れば、誰でも看破する人は無い。難しいのは声を変えることだが、幸い僕は声を変える術を知って居るから安心だ。」

 永谷は聞くうちに漸(ようや)く心も落ち着いて来た。唯だ何故に皮林がこの様に姿を変えて来たのだろうかと、其の用向きが理解出来なかったので、
 「だけれど君は何だって姿を変え、此の屋敷へ忍び返った。」
 皮「新夫人と駆け落ちして、不義者と見做(みな)されて居る皮林育堂が、姿を変えずに此の屋敷に、寄り付かれる者か。」
 永「イヤ姿を変える必要は分かって居るが、此の屋敷へ帰って来た必要が分らないよ。何も危険を冒して、返らなければならない様な用事は、無いじゃ無いか。」

 皮林は独り呑み込んだような口調で、
 「イヤ有るよ。未だ肝腎の用事を残して有る。仏だけは作ったが未だ魂を入れずに置いて有るから、其の魂を入れに来たのだ。」
 是れは抑(そもそ)も何の意味だろうか。彼の企計(たくらみ)は、実に恐ろしい迄に良く行われ、唯だ不思議と思われる程だが、彼れはまだ肝腎の魂を入れずに有ると云う。

 彼れがこれ程までに云うからは、今までよりも、もっと恐ろるべき企計(たくらみ)を持ち、それを成し遂げる為ではないかと、永谷は急に身震いが催して来るのを覚え、強いて自ら我が身を落ち着けようと藻掻くばかり。皮林はそうと見て、

 「ナニ驚くにも恐れるにも及ばないよ。無言(だま)って僕に任せて置きたまえ。今にも召使いの者か誰か、茲(ここ)へ来るだろうから、僕は旨(うま)く其の者を欺(だま)して、此の屋敷の勝手口へ入り、今夜一夜、召使いの部屋か台所の隅へ寝かして貰う。君はもう男爵から勘当を許されて、此の財産の相続人と定(き)まったから、唯だ音なしく無言(だま)って控えて居たまえ。」

 彼の云う所は益々薄気味が悪い。彼召使いの部屋に泊り込み、如何(どの)様な企計(たくらみ)を施そうとする積りなのだろうか。永谷は聞くのさえも恐ろしい気がするので、敢えて聞こうとははしない。
 「夫(それ)にしても、僕の勘当が許された事が、何うして分かった。」
 「夫(それ)は君の顔色に浮んで居るよ。君が嬉し相に庭の景色を眺めながら出て来る様は、何うしても此の家の相続人取り立てられた人の様だ。此の庭も此の木も総て後々は己(おれ)の物かと心に数えながら来たじゃ無いか、エ、君、僕にはそこまで君の心が分るから、此の後も、君が僕を跳ね退けて、独りで旨い事を仕様としても爾(そう)は行かないぜ。」
と実に星を指す様に云う。

 永谷は何と答えて好いか分からない。暫(しばら)くして、皮林は又も永谷の顔を見詰めて、
 「だが君、君も良く考えて見給え。茲(ここ)まで仕事は旨(うま)く行ったが、未だ肝腎の事がし忘れて有ると気が付くだろう。」
 永谷は少しも悟らず、
 「ナニ、し忘れては居無い。僕は此の家の相続人に取り立てられて、夫で一切の本望を達した。」

 皮「君も本当に智慧が無いよ。名前ばかりの相続人が何で有難い。相続人と定まった上で、真に伯父から此の財産を譲られ、此の財産が全く自分の物に成って、初めて本当に目的を達したと云う者だろう。相続人と云う名を貰っても、一銭も自分で此の財産を自由にする事が出来なければ、名前倒れで仕方が無い。」
 永「其れは爾(そう)だけれども、財産が自由になるのは、伯父が死んだ後で無ければ。」

 皮「爾(そう)サ、君の伯父は何時死ぬ。今年が四十八,九だろう。未だ容易に死にはしない。取り分け身体も健康だから、僕の見受けた所では、八十か九十頃までも生きて居そうだ。そうすれば其の財産が君の物になるのは、今から三十年か四十年も後の事だよ。君が五十以上、そうだな、六十か七十の年に成って初めて当家の本当の主人になるのだが、君は六十になるまで部屋住みの儘(まま)で待つ積りか。」

 アア、此の言葉から察すれば、彼皮林育堂の意は充分に明白で有る事が分かる。永谷は未だ察する事が出来ないが、彼育堂は永谷が此の家の相続人と定まって、遺言状に其の名前の書き込まれるや否や、直ちに男爵を殺そうと云う積りなのだ。
 彼れが、「仏作って魂入れず。」とは、相続の権は永谷に移っても、更に男爵をも殺そうとの謂(いい)なのだ。


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