sutekobune67
捨小舟 (博文館文庫本より)(転載禁止)
メアリー・エリザベス・ブラッドン作 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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捨小舟 前編 涙香小史 訳
六十七
男爵がこの様に毒殺を免れて、小部石大佐が其の身代わりとなり、一同の疑いは、新夫人園枝にだけ降り掛かったが、それとも知らず、此の家から立ち去った園枝自身は、今何処に居て、何事を為しつつあるのだろう。
茲(ここ)に倫敦(ロンドン)の一市街ボウストリートの片隅に、
「秘密探偵社、横山長作」
と書いた看板を掛け、諸種の探偵事件を業とする一人が居る。此の人の得意先は何処に在るかは知らないが、時々は警察署にも出入りし、又或る時は地方にも出張して、十日二十日と帰らない事も有る。三年前に此の所に業を開いてから、家賃の滞った事は無いけれど、だからと言って、其の住居(すまい)は非常に陰気で、其の暮らし方の質素なことは、裕福な身の上とも思われない。
主人が家に在る時は、夜遅くまで業を取ると見え、他の家の寝静まる頃も、窓に薄暗い硝灯(ランプ)の光を洩らし、朝は又何れの家よりも早く戸を開くのは、主人が並大抵で無く、其の業に熱心な事を知る事が出来る。
此の人は誰だろう。かつてラトクリフ酒店で第二立田丸の船長立田と云う者が殺された時、我が生涯をば其の罪人の捜索に委ね、立田の為に仇を復そうと誓った、横山長作と云う者が居た事は、読者の未だ記憶する所であるに違いない。其の人が即ち此の人と同名である。同じ人では無いだろうか。
夫(それ)はさて置き、小部石大佐が常磐男爵の身代わりになった翌日の、午後四時の頃の事であるが、此の「秘密探偵社」に来て、主人横山に面会を求める一人の婦人があった。身には着古した旅服を纏(まと)い、唯だ一個の小さい手提皮包(カバン)を提げただけ。探偵を雇うほどの物持ちの女とは見受け難いが、唯だ其の顔の非常に美しく、姿の非常に優れて居る事は、世の普通の旅人とも思われない。
此の婦人は頓(やが)て取次ぎの案内に従い、横山長作の事務室に歩み入ると、是が主人(あるじ)横山で、窓の下にある卓子(テーブル)に打ち向かい、厚い日記帳を打ち開き、或いは赤、或いは黒い墨汁(インキ)で、様々な図を書(えが)き、様々の線を引いた紙の面を、余念も無く検(あらた)めて居たが、婦人が入って来る足音に、直ちに其の帳面を閉じ、婦人が未だ一言をも発しないのに、
「貴方は何の用事です。」
と問うた。
婦人は突然の問いに逢い、直ぐには返事も出来ず、唯だ静かに主人の様子を眺めるに、年は三十以上、五十以下で、何れとも見定め難く、背低く体痩(や)せて、殆ど女の体形であるが、色は黒く眼光り、一目で人の心の底までも、読み尽くすかと疑われる程であるのは、きっと秘密事件の探偵に熱心な質(たち)なのであろう。
婦人が斯(こ)う思う間も、横山は更に悶(もど)かしいと言わんばかりに、
「サア、腰を卸(おろ)して用事の次第をお話なさい。私の時間は大切だから。」
と促した。
婦人は漸(ようや)く椅子に就き、非常に憂い深い音調で、
「ある悪人の挙動を、貴方に探偵して貰い度いと思いますが、其のお暇が有ましょうか。」
と問い出した。横山は何の愛想も無く、
「私の身に暇と言っては有りませんが、報酬に応じて暇を拵(こしら)えるのです。貴方は私に、其の暇を作らせる丈の報酬が、出来ますか。イヤサ、私を雇う賃金が払えますか。それを先に伺いましょう。」
婦人は聊(いささ)か失望の様子で、
「オヤ、私は又貴方が外の探偵とは違い、事件に由っては無報酬で働いて下さる様に聞きまして。」
横山は皆まで言わさず、
「ハイ、事件に由り、人に由ってです。私が此の事件なら探って見度いと見込みを附ければ、随分無報酬でも働きますが、其の代わり、見込みが附かなければ、中途で断って仕舞います。」
婦人はこの剣幕に驚いてか、前の言葉を言い直し、
「イエ、私も全くの無報酬で願うとは云いません。今は未だ何の職業も有りませんから、報酬も出来ませんが、追々職業に有り就けば、相当の報酬は出来ると思います。」
横山は此の返事に満足して、
「フム、中々面白い。貴女の頼み方は今までの頼み人(て)とは違って居る。今は払えない。追々は払う。フム、前金や即金では払うなどと、立派な約束をする人は、得てして不払いになる者だが、其の言葉が気に入りました。兎に角事件の性質だけは聞きましょうう。」
婦人は此の異様な言葉を聞き、却(かえ)って薄気味悪いほどに思ったが、
「ハイ、恐ろしい悪人が、或る婦人を無実の罪に落としました。其の婦人は何うかして復讐したいと思い、」
横「エ、復讐と仰(おっしゃ)るか。尤(もっと)もです。」
婦「ハイ、復讐と言っても、唯其の身に掛かる悪名さえ晴れれば好いのです。夫(それ)を消すには、其の悪人の企計(たくみ)を探り、此の通りの目的で人を無実の罪に落としたと、其の証拠を得ればそれで好いのです。」
横「フム、良くは分らないが、中々六つかしい。先ず貴女のお名前から伺いましょう。」
婦「ハイ、私の名前は」
と婦人は言い掛けて、暫(しば)し口籠(くちごも)ったが、熱心な横山の眼の光に敵し得ず、
「園枝です。ハイ、牧島園枝と申します。」
横「ヤ、ヤ、園枝」
と横山は打ち叫び、非常に驚いて、忽(たちま)ち何事をか思い出した様に、婦人の顔を穴のあくほど眺め始めた。
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